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所在地=〒143-0005 . 東京都大田区平和の森公園2番2号 TEL=03-5471-0333 / FAX=03-5471-0347 営業時間=1月~5月・9月~12月 9:00~17:00 . 6月~8月 9:00~19:00 休館日=第3月曜日(祝翌日) 12/29~1/3 入館料=無料 駐車場=100円/30分 |
「京急平和島」駅より徒歩15分 東京モノレール「流通センター」駅より徒歩15分 |
大森地区の海岸部には明治時代の終わりごろから、石炭を大量に使う大工場から操業していました。明治41年に設置された東京瓦斯大森製造場や大正5年に創業した日本特殊鋼会社などで、そこで燃焼する石炭を「だるま船」が運んできました。 東京瓦斯大森工場は昭和48年まで石炭を使い、沖合に停泊する大型貨物船から石炭を「だるま船」へ積み替えて着岸させていました。その「だるま船」の港が、現在は「大森ふるさとの浜辺公園」へと整備されています。 「だるま船」は自走せず、動力船に数艘連ねて曳航されました。自走せず、形も丸いことから「だるま船」と呼ばれるようになったといわれます、また、船頭の家族が船でで生活できるように寝床やカマドも設けられていました。 第二次大戦後は鋼鈑船となりますが、戦前は船大工の造船する木造船でした。この木造の「だるま船模型」は、海苔船の船大工でもあった「船竹」が戦前造船した船型をもとに、同家の小島延喜しが再現したものです。 |
左⇒カけご 中央⇒洗いざる 右⇒海苔取りざる |
ヒビに育った海苔の摘み取りを “手入れ”と呼びました。木や竹のヒビの頃は12月上旬、海苔網になると11月のうちに始まり、翌年3月までの間、旧暦で潮の干満を見て手入れに出ました。 一人乗りのベカ舟にざるを積んで出かけます。海苔はやわらかくて滑る安いので凍える寒さでも捨てで撮りました。摘み取った網の海苔は、一潮(半月)ほど育ててから再び採りました。 |
左:海苔網ヒビ 中:ヒビごさえ(ヒビ作り) 右:ヒビ建て |
振り棒を突き立てた海底の穴へヒビ挿し込みますが、背の立たない水深では海苔下駄をはいて振り棒を使いました。 |
享保(1721~36)ころ 木ヒビを建て、海苔を採り始める。波静かで遠浅の海は、海苔つくりに適していた。 延享3年(1746) 海苔運上(営業税)を幕府へ納める 宝暦年間(1751~64) 大森村(北大森村・東大森村・西大森村の3村)と糀谷村が海苔漁場を競いあい、両村の浜の村境から沖へ“卯の一分”(真東)の方向へ見通した線を、海の境界線と定めた。 文化年間(1804~18) 大森村が、糀谷村との漁場境界線“卯の一分”に沿って設けた“横柵”をめぐり、両村互いに漁場拡大の主張を譲らず。大森は御膳海苔の供給地としての伝統を主張。 文政(1818~30) 太平洋岸の波静かな各地の入り江に、大森海苔の作り方が伝わり始める。 天保7年(1836) 将軍「家慶」就任祝いの鯛を活かしておく生簀の波除名目で、羽田村・羽田猟師町の海苔ヒビが認められた。許可は一年限り。羽田が海苔漁場の認可を得るのは明治3年となる。* 明治元年(1868) 大森村が海苔生産の継続のため献金を明治新政府に願い出る。新政府は五千両の献金額を指定し半分を五年返済と決めるが、翌年には新漁場の認可を条件に全額献納とし、この時獲得した漁場を“官軍場”と呼ぶ。 明治・大正・昭和初め 漁場が広がり、長く日本一が続く。 東京府の海苔生産量は昭和10年代まで全国一位。 昭和2年(1927) 浅瀬の広がる横浜-東京間に、臨海工業埋め立地と大航路(京浜運河)の計画が発表される。東京側は漁民の反対により遅れ、昭和14年に着工するが大戦のため計画中断。再開は昭和30年代後半となった。 昭和30年頃 海苔漁場の汚れが目立ちだす。 昭和35年(1960) 東京都、港湾改修10ケ年計画決定。 昭和37年(1962) 東京港の改修のため、12月漁業補償成立。海苔漁業をやめる。 昭和38年(1963) 春、最後の海苔採り。 |
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