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No.814 吉見百穴  -出かけませんか?-   Photo30枚 814 Yoshimi 100 hole  Saitama-Ken Japan 


814  吉見百穴(よしみひゃくあな)  
埼玉県(Saitama-Ken)

10/08/15 Sun.


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吉見百穴





県立比企丘陵自然公園 吉見百穴 HP

 凝灰岩の丘陵地帯につくられた古墳時代後期(7世紀から8世紀)の横穴古墳群で江戸時代から人々に知られ明治20年に坪井正五郎博士が東京帝国大学の後援で発掘調査し、横穴を掘り出すことに成功した。当時百穴は先住民族であるコロボックル人の住居跡であるとか、松山城の兵器庫であるとか言われたが大正末期には、古墳時代後期の代表的な群集墳基であるとの学説が確定した。
現在219個ある。      
-冊子より-

国指定史跡 吉見百穴
【〒】:355-0155
【所在地】埼玉県比企郡吉見町大字北吉見325
【TEL】0493-54-4541
【観覧料】大人=300円 小人=200円
※埋蔵文化財センターの入場料も含まれます
【駐車料】無料
【開館時間】8:30~17:00 入館は16:30まで
【休館日】年中無休










吉見百穴の時代
仏教が伝来したのは西暦552年(一説には538年)、聖徳太子が推古天皇の摂政となって活躍したのは西暦593年~622年であり、百穴が造られ始めたころとほぼ一致します。仏教が本格的に広まるのは後年のことではありますが、古墳を造営して死者を葬っていた当時の日本人の死生観に大きな影響を与えたと想像することができます。
 また、6~7世紀は地方豪族の連合の首長として君臨していた大和朝廷がその支配力を一層強め、日本全体が中央集権国家へと移り変わっていった時期です。西暦645年の「大化の改新」以降、中央集権国家としての国家機構は加速していくことになります。西暦647年には葬送の儀式に関係した「薄葬令」が出されました。「薄葬」とは一言でいえば「簡単に葬ること」で、地方豪族の権力の象徴といえる古墳の造営を制限した法律です。西暦652年には班田収授法が施行され、豪族の支配していた「土地」と「人」のすべてが大和朝廷の支配下に置かれるようになり。公地公民制が本格化されていきました。
 この「仏教伝来」「中央集権国家の誕生」という日本の社会の大きな変換期に百穴は造られたのです。

 横穴式の石室
横穴墓の形態は数種類に分類することが可能ですが、ほとんどの横穴の壁際には10~20cmほどの段が作られています。
これが死者を安置した部分で、一つの横穴に二つの段があるということは複数の人が葬られたことを示しています。また横穴墓の入り口には「緑泥片岩」と呼ばれる山間部に分布する緑色の石の蓋が立てかけられていました。この蓋の存在は、横穴に死体を葬った後であっても、再び式室内に入ることが可能であることを意味します。こうした構造から、横穴墓は一つの横穴に複数の死者を葬る「追葬」ができるのです。これは古
墳時代後期に造営された古墳の石室構造と同じものです。  
-パネルより-










棺座の工夫
 玄室の棺座から中央の通路にかけてまた通路から羨道・前庭にかけて溝がほってある例がいくつか見られます。
 ほとんどの横穴が玄室から前庭にかけて傾斜をつけて掘ってあります。これらは排水のための工夫でしょう。
 玄室に安置された遺体がいつまでも腐らないで、とこしえに現世の生活が続けられるように願った古墳時代の人々の死者への祈りがこめられているのであろうか。
            -パネルより-















斜面に並ぶ穴は、西側から東側へと次第にその並び方が整っています。特に東側にある穴は平行線上に正しく配置されて整然とした感じがあります。穴の掘り方の技術や考え方が進んでいた証拠と考えられます。
上位の穴や下の穴では下から次第に穴が大きくなり、また、下の方より上の方が穴と穴の間隔が広くてゆとりが出てきています。中位の穴は2・3の大きく立派な穴が取りまいて、その周辺に小さな穴がいくつか掘られ一つの小グループをつくっていることがわかります。
この穴の並び方や、また上中下の位置の違いは穴が掘られた年代の違いを示すものか、また葬られた人の身分や富とのつながりがあるのか考えながら観察しましょう。




 横穴は玄室(げんしつ)・羨道(せんどう)・前庭(ぜんてい)の三つの部分からなっています。玄室は死者を埋葬したところで、ここは普通遺体を安置した棺座がつくられています。
羨道は前庭から玄室に通ずる通路であり、前庭は羨道の外につくられた広場ですが、ここではおそらく死者を葬る祭りがおこなわれたのでしょう。
遺体を玄室内に安置した後、横穴は羨道の外側に封鎖石【扉石】を立てかけて閉塞しました。
封鎖石には多くは緑泥片岩の一枚岩を使っていますがまれに凝灰岩の切石を積み重ねた例もあり一定していません。
封鎖石は粘土を用いて密封され、あけることはできませんが、追葬の際は、粘土を除いて取りはずしました。











玄室は横穴の中でも最も重要な部分です。
ここにつくられた一段高いベッドのような床は遺体を安置するところで棺座と呼ばれています。棺座は片側正面に一つだけのもの、西側・片側と正面等複数になっているもの、あるいは無いものなど、「百穴」の玄室には七種類の配置があります。横穴が個人の墓ではなく家族墓であって、しばしば追葬が行われたからでしょう。
棺座の大きさは一人の棺を載せるのではなく二人分またはもっと乗せるためにつくられたものです。
玄室の形は様々です。最も多い形は方形ですが、正方形に近いもの・長方形・羽子板形・三味線形等色々あります。
丸い形もありますが、吉見の横穴群の中では異例です。















丘の頂上に着きました。



軍需工場入口のすぐわきにある吉見百穴ヒカリゴケ
この土器のようなものがなぜここにあるのかわかりませんが、
その奥に 吉見百穴ヒカリゴケがあるようです。
この網の間から、撮りましたので、オンマウスでご覧ください。






軍需工場跡




↓図の斜線の部分が見学できました。左の画像はその入口です。
高さは3mくらいでした。


トンネルの中からはヒンヤリとしたと冷たい風が流れてきて
外はむし暑かったので、吸い込まれるように入りました。






 昭和19年末~20年の初め、吉見百穴とその周辺の丘陵地帯に大規模な地下軍需工場が造られました。今でも通行可能な直径3mほどの開口部をもつ洞窟が地下軍需工場の後です。地下軍需工場は空襲を避けながら航空機の分金を製造する目的で作られたもので、縦と横の洞窟がそれぞれ交差し碁盤の目のようになっているのが特徴です。
 第二次世界大戦の末期。東京都武蔵野市にあった中島飛行機工場は、地下に移転する計画がありましたが間に合わず、空襲によって生産能力が1/10に落ち込んだと言われています。そのため、現在のさいたま市にあった中島飛行機工場移転の必要性が急速に高まり、生活物資の調達に便利で掘削に適した場所である吉見地域に軍需工場が造られることになりました。




軍需工場の区域となったのは松山城跡から岩粉坂までの直線距離にして約1300m部分で、この工事を「吉松工事」と呼んでいました。軍需工場は大きく分けて「松山城跡下」「百穴下」「百穴の北側」「岩粉山近辺」の4工区あり、それぞれの工区は独立していました。ダイナマイトを使用して工事は進められましたが、工事に適した凝灰質砂岩」は百穴と岩粉山付近にしか分布していません。松山城下には固い岩盤があり落盤が起こりやすく、百穴と岩粉坂の中間は山が低いので掘削に適さず工事は難航し、また、その方法は工事を進めながら同時に設計も行うという作業のため、掘削しては測量し、工程や方向を修正していたと言われています。









7月頃には機械が搬入されエンジンの部品が製造され始めたようですが、本格的な生産活動に移る前に終戦となりました。この工事に携わったのは全国から集められた3,000~3,500人の朝鮮人労働者で昼夜を通した突貫工事でした。掘削工事に従事した最後の人の帰国に際し、日本と朝鮮との平和を希望して植えられたムクゲの木は現在でもこの地で成長を続けています。
-パネルより-



出口が見えました。




埋蔵文化財センター









昔の衣装を復元展示










点うちによる花模様のガラス玉のつくり方




このお部屋では、大勢の人が体験教室で
“勾玉(まがたま)”を作っていました。
















資料展示館













石室の変遷と被葬者
 3~4世紀に発生した初期の古墳は「竪穴式」の石室構造で、一度古墳が造営されると再び石室に入るためには古墳を怖さななければならず追葬は困難でした。
このころの古墳の被葬者は大豪族や大王といった権力の頂点にいる人々でしたが、古墳時代の後期には大豪族や大王の側近などの豪族も古墳を造営し日本各地で古墳群を形成するようになりました。
 このころ、大陸から横穴式の石室構造が伝来し、一つの古墳に複数の死者を葬る「追葬」を行うようになりました。その後、社会的な変化や時代の変遷によって大規模な古墳は造営されなくなり、古墳時代の終わりには吉見百穴に見られるような横穴墓群になっていったのです。こうしたことから吉見百穴に葬られた人々は「豪族」「渡来人」といった当時の社会で特殊な集団であったことが考えられます。







パネル説明と冊子等を参考にしました。


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