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今日最後に 小田原城址公園に行きました。
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小田原城跡のイヌマキ
天然記念物
常盤木ばしの前にある、幹回り4.5mに及ぶ小田原市内最大の巨木です。
左巻きにねじれた主幹は、地上5mの所で四つに分かれ枝葉を伸ばし、以前は四方へ枝を広げ、傘状の見事な形でしたが、台風で北側の大枝が折損しこの形になったそうです。
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小田原城 公式サイト
お問合せ先:小田原市役所 観光課 城址公園係
Tel:0465-23-1373
駐車場:一般駐車場はありません。
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ハスの花は咲いていませんが、参考までに。
南堀の大賀ハス スイレン目ハス科/学名:Nelumbo nucifera/英名:Lotus
ハスの和名は、万葉時代に花托(かたく)の形がアシナガバチの巣に似ていることから「蜂巣(ハチス)」と名付けられ、後に「チ」が省略されて「ハス」となりました。南堀に群生するハスは、1979年(昭和54)に大賀ハスを株分けして繁殖させたものです。
花・葉とも高さ1~2mに成長し、夏になると直径20cm程の花が咲きます。根茎は泥の中に節の多い蓮根(レンコン)を作ります。
大賀ハスは、1951年(昭和26)に千葉市検見川の落合遺跡で発掘された、今から2000年以上前のハスの実から発芽・開花したハスです。植物学者の大賀一郎博士の手によって開花したこの蓮は、博士の姓をとって「大賀ハス」と名付けられました。 |
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銅門(あかがねもん)
屋曲輪から二の丸に通じる位置にあり、二の丸の正門にあたります。渡櫓門、内仕切門と土塀で周囲を囲む枡形門の構造を持ちます。渡櫓門にはその名の由来となった銅板の装飾が映えます(平成9年復元)。 |
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菖蒲園から見えた赤い橋を渡って
常盤木門に向かっています。
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小田原城 常盤木門(ときわぎもん)
本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも、最も大きく堅固に造られていた。古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことがわかる。
元禄16年(1703)の大地震で崩壊したのち、宝永3年(1706)に多門櫓と渡り櫓から構成される増形門形式で再建されたものが、明治3年(1870)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれている。
現在の常盤木門は、姿勢30周年事業として、明治時代初期に撮影された写真などを参考に再建したもので、昭和46年(1971)3月に完成した。
常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたといわれている。 |
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常盤木門
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天守閣と北条氏滅亡
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この時間なので、城内見学はできませんが、
公園にいるだけで 歴史を肌で感じられそうです。
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公園地図
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天守閣は、昭和35年に市制20周年記念事業として総工費8千万円をかけて復興された小田原市のシンボルです。
江戸時代に造られた雛型や引き図(宝永年間の再建の際に作られた模型や設計図)を基に昭和35年に江戸時代の姿として外観復元され、内部は歴史資料の展示施設となっています。復興に当たっては、「瓦一枚運動」が展開され、多くの市民からの寄付が寄せられました。
3重4階の天守櫓に付櫓、渡櫓を付した複合式天守閣で、地上38.7m、鉄筋コンクリート造、延床面積1822平方メートルとなっています。なお、最上階の高欄付き廻縁は復興に際して新たに付けられたものです。
内部には、甲冑・刀剣・絵図・古文書など、小田原の歴史を伝える資料や、武家文化にかかわる資料などが展示されています。標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができます。
小田原市では平成18 年に天守閣の高さを基準とした高度規制を行い、天守閣の高さを超える建物の建築を制限し、長い時間をかけて育まれてきた歴史景観を次世代に受け継いでいくこととしています。 |
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小田原城と小田原合戦攻防
天正18年(1590)4月、関東最大の勢力を誇る戦国大名小田原北条氏の本拠地小田原城は、全国統一を推し進める関白豊臣秀吉率いる諸大名の大軍に包囲される。
◆中世最大規模の城。小田原城出現◆
北条氏の当主氏直は、臣従を迫る豊臣秀吉と交渉を続ける一方、小田原城をはじめ諸城を強化し、総動員態勢を整える。特に、小田原城に城下の街ごと囲む全長9kmに及ぶ長大な大外郭を構築し、決戦に備えていた。
結果的に交渉は決裂。氏直は、国境線を固めるとともに小田原城に主力を投入、さらに領内100ヵ所に及ぶ支城の防備を固めて防衛体勢を整えた。
◆小田原城を包囲する戦国の英雄たち◆
豊臣方の軍勢は水陸あわせて約22万。徳川家康らを先鋒とする秀吉の本隊は東海道、前田利家・上杉景勝率いる北国勢が上野国(群馬県)から北条氏の領国に侵攻。長宗我部元親・九喜嘉隆らの率いる水軍が兵員・物資を搬送し、海上封鎖に従事した。
大外郭の出現により中世最大の規模を誇った小田原城には、6万とも云える人々が籠り、豊臣秀吉・徳川家康をはじめ、織田信雄・蒲生氏郷・羽柴(豊臣)秀次・宇喜多秀家・池田輝政・堀秀政など、名だたる戦国の英雄を迎え撃ち、3カ月余りに及ぶ攻防戦を展開する。
◆秀吉、石垣山城築城◆
小田原城の攻略に当たり、十分な兵糧・資金を用意して長期戦の構えで臨む秀吉は、壮大な石垣山城を築き、本営を湯本早雲寺[箱根町]から移動。淀殿や参陣諸将の女房衆を召し寄せ、また千利休らの茶人や芸能者を呼ぶなど長陣の労を慰めた。
◆北条氏の降伏◆
北条方は、各地の諸城に籠って防戦し、機会を見て反撃に転じる作戦であったが、主力の籠る小田原城を封鎖されたまま各地の支城を撃破され、次第に孤立していった。同年7月に至り北条氏直は城を出て降伏を申し入れ、自らの命と引き換えに籠城した一族・家臣や領民らの助命を願い出る。しかし、秀吉はこれを認めず、氏直の父氏政とその弟氏照らに切腹、氏直に高野山追放を命じ、ここに戦国大名小田原北条氏は滅亡した。
◆そして、戦国時代は終わる◆
この合戦の過程で、関東ばかりでなく伊達正宗ら東北の諸将も秀吉に臣従する。この結果、天下統一の事業が達成され、北条氏の滅亡とともに戦国時代も終わりを告げた。
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-大看板より- |
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※公園内の大きな合戦図を写真に撮りましたが、
ここで掲載できるサイズに縮小すると見づらいので
省略しました。
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動物園
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どうしてここにお猿さんたちが居るのかわかりませんが、
たくさんいて、可愛い! |
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お猿さんは良い表情をしてくれるのですが、
ピントが合わず
シャッターチャンスを逃すばかりです。
う~ん 金網が・・・ |
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押しくらまんじゅうのように集まり
みんなで揺れて遊んでいました。 |
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お願い
動物に食べ物を
与えないで下さい
-動物園-
・・・・・・・
猿だけの動物園のようです。
可愛い動きに、時間が経つのを忘れました。
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お気づきになられたことがございましたら
ご一報ください。→:こちら!
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HP・パネル等を参考にしました。
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