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No.914 浜松城
No.914 Hamamatsu castle
Shizuoka-Ken /Beautiful Japan
Photo17pieces/GreenSeason
♪=平均律
◆金陀美具足、歯朶具足、徳川家康、
◆馬具、鞍、鐙、井戸
◇城、展示館
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左 金陀美具足(きんだびぐそく)複製
家康が19歳のときに着用したといわれています。
右 歯朶具足(しだぐそく)複製
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徳川家康

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浜松城下町復元模型
江戸時代後期、天保年間(1830〜1843)頃
1/600で再現していました。
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左 上級武士の乗馬鞍・鐙(あぶみ)
右 荷役馬具 大名道中●荷役馬鞍
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中央 火縄式鉄砲
右下 火縄銃砲(前田)
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天守閣からの眺望
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左 近小札潟二枚胴具足
江戸時代の大名が着用 |

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農民政策と浜松
家康の政治の中心は、農民政策であった。浜松入城の翌年、遠江で検地を行った。さらに、1589年〜90年(天正17〜18)にかけて、領国5ヶ国で総検地を行い、それとともに「七ヶ条の定書」を下した。こうしたことを通じて家康は、小農の自立策をとり、権利のある者には今までどおり権利を認め、自分たちの村を運営させた。このようにして家康は領国支配を固め、全国を治める力をつけていった。関ヶ原の戦いに勝った家康は、東海道の重要な地域に譜代大名を配置したので、浜松は明治維新まで譜代大名の領地になった。
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徳川家七ヶ条定書
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家康が天正17年(1589)に領国の5ヶ国の郷村にに交付したもので、家康の「福徳」という朱印があり、「福徳のご朱印」とも呼ばれ、旧和地村に発布されたものである。
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右の写真は、上の井戸を覗き込んだ画像です。
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浜松城の井戸について
浜松城の天守台には穴蔵と呼ばれる地階があり、その中央部には石組井戸がある。石組井戸とは穴のまわりを、石を積んで崩れないようにしたもので、この時代、他の城郭にも多くみられる。浜松城の他に名古屋城、松江城、などにも天守穴蔵に井戸がある。
井戸は、城内に住む人々の飲料水として、、また戦いの時に籠城になることも想定し、最後の拠点として天守内部や、天守の間近に設けられることがあった。 |
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浜松城 稲荷社 鳥居
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浜松城は徳川家康の居城として知られ、家康は29歳から45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。武田信玄と戦った「三方ヶ原の戦い」は信玄がこの城を無視したことがきっかけになっています。また江戸時代には歴代城主の多くが幕府の重役に出世したことから「出世城」と呼ばれています。現在は浜松城公園として整備されています。

浜松城は記録に乏しく、江戸時代にはすでに存在しなかったようです。現在ある模擬天守は1958年(昭和33年)4月に天守台の半分を使って建てられたもの。なお、築城時期や天守台の大きさから推測すると、かつての天守は望楼型で現在よりも一回り大きい3重4階の天守だったと思われるようです。
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浜松城の石垣は見るからに荒々しく、外観は粗雑で一見崩れやすいように思えますが、4百年の風雪に耐え、いまなお当時の面影を残しています。
この石垣は野面(のづら)積みといい、自然石を上下に組み合わせ積む方法で、慶長(1596〜1615)以前はこの方法が多く用いられました。石の大きい面を内側にして長く押し込み(牛蒡積み)、その内側に小型の栗石を1〜1.5メートルほど詰め、さらに砂利を入れてあるので水はけもよく、水圧で崩れることがありません。石垣表面の隙間には詰め石をし、外観は乱雑ですが、堅固に造られています。 |
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