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左 金陀美具足(きんだびぐそく)複製
家康が19歳のときに着用したといわれています。
右 歯朶具足(しだぐそく)複製
家康の政治の中心は、農民政策であった。浜松入城の翌年、遠江で検地を行った。さらに、1589年〜90年(天正17〜18)にかけて、領国5ヶ国で総検地を行い、それとともに「七ヶ条の定書」を下した。こうしたことを通じて家康は、小農の自立策をとり、権利のある者には今までどおり権利を認め、自分たちの村を運営させた。このようにして家康は領国支配を固め、全国を治める力をつけていった。関ヶ原の戦いに勝った家康は、東海道の重要な地域に譜代大名を配置したので、浜松は明治維新まで譜代大名の領地になった。 |
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家康が天正17年(1589)に領国の5ヶ国の郷村にに交付したもので、家康の「福徳」という朱印があり、「福徳のご朱印」とも呼ばれ、旧和地村に発布されたものである。 |
記念写真に ご利用ください。^^* |
刀剣と一緒に ご自由に撮影ください |
浜松城の天守台には穴蔵と呼ばれる地階があり、その中央部には石組井戸がある。石組井戸とは穴のまわりを、石を積んで崩れないようにしたもので、この時代、他の城郭にも多くみられる。浜松城の他に名古屋城、松江城、などにも天守穴蔵に井戸がある。 井戸は、城内に住む人々の飲料水として、、また戦いの時に籠城になることも想定し、最後の拠点として天守内部や、天守の間近に設けられることがあった。 |
浜松城の石垣は見るからに荒々しく、外観は粗雑で一見崩れやすいように思えますが、4百年の風雪に耐え、いまなお当時の面影を残しています。 この石垣は野面(のづら)積みといい、自然石を上下に組み合わせ積む方法で、慶長(1596〜1615)以前はこの方法が多く用いられました。石の大きい面を内側にして長く押し込み(牛蒡積み)、その内側に小型の栗石を1〜1.5メートルほど詰め、さらに砂利を入れてあるので水はけもよく、水圧で崩れることがありません。石垣表面の隙間には詰め石をし、外観は乱雑ですが、堅固に造られています。 |
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