923 上田城跡公園

長野県(Nagano-Ken)
12/09/09 Sun.


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♪「グラジオラス・ラグ」S.Joplin
ピアノ バージョンです♪

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上田城跡公園


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No.923 上田城跡公園
No.923 Ueda ruin of a castle park

Nagano-Ken /Beautiful Japan
Photo25pieces/GreenSeason
♪=グラジオラス・ラグ
◆智恵の真田神社、上田城跡
◆国の史跡
◆真田幸隆、真田昌幸、真田幸村(信繁)、武田信玄
◇城跡、神社、公園
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現在は、旧二の丸内が上田城跡公園という公園になり、毎年のお花見の季節には賑わうそうです。
敷地内には市営球場、市民会館、市立博物館、などがあります。
本丸跡には明治に造られた松平神社、現在の真田神社に歴代城主が祀られています。



真田神社

智恵の神社
真田神社の由緒

当社は戦国時代の天正11年(1583)上田にこの平城を築き城下町を作った真田父子を主神とし、江戸時代に民政に尽くした仙石・松平の歴代藩主を祭神とする神社です。
殊に十数倍の大軍を二回にわたり撃退して日本一の智将と謳われた真田幸村の神霊は、今も智恵の神様としてあがめられています。
--真田神社--
拝殿 ↑

本殿(神殿) →



真田赤備え兜 巨大レプリカ
 二度にわたり徳川の大軍の攻撃を退けた
真田の 「智勇」は天下に轟き
大阪夏の陣において武具を 赤で統一した
「真田赤備え」部隊を率いた真田幸村公が
かぶった兜。
-立札より-
六文銭
旗印である六文銭(もしくは「六連銭」)は、冥銭を表しているといわれています。冥銭とは、亡くなった人を葬る時、棺に入れる六文の銭の事で、三途の川の渡し賃のことです。これを旗印にすることは「不惜身命」(ふしゃくしんみょう:仏法のために身命をささげて惜しまないこと)を意味するといわれています。
ウィキペディアより


←  真田井戸
この井戸には、抜け穴があり
城北の太郎山麓の砦に通じていた。
敵に包囲されてもその抜け穴より
兵糧を運び入れるにも、城兵の
出入りにも不自由しなかったという。
-立札より-
天文17年(1548)上田原合戦で
武田信玄と真田幸隆(幸村の祖父)が共に兜を
かけたと言われる松の木だそうです。


真田幸隆(さなだゆきたか)は、戦国時代の武将。信濃の在地領主で、甲斐国の戦国大名である竹田氏の家臣。息子三人と共に、武田二十四将にも数えられる。
幸隆の智略と功績は信玄に高く評価され、外様衆でありながら、譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えることを許された。
武田家中でも一目置かれていたといわれており、戦国三弾正の一人として「攻め弾正」の異名で呼ばれている。
-HP真田一族より-
酒樽茶室 →
このような樽が間隔をあけて数樽並んでいました。^^*

真田昌幸(さなだまさゆき)真田幸村の父で、幸隆の三男。
武田信玄時代の甲斐武田家に仕え、武田氏滅亡後に自立し後北条氏や徳川氏との折衝を経て豊臣政権下に於いて近世大名化した。上田合戦で二度にわたり徳川軍を撃退して徳川家康を大いに恐れさせたことで知られ、後世には戦国時代きっての智将・謀将としての人物像が付加され、現在では講談や小説などで大いに知られるようになっている。
-HP真田一族より-



上田城跡
上田城の歴史
 上田城は、真田幸村(信繁)の父、真田昌幸によって天正13年(1585)には一応の完成を観たものと考えられています。
 この上田城は間もなく、天下にその名を知られるようになりました。それは、この上田城に拠った真田氏が、二度にわたって徳川大軍の攻撃を受け、見事にそれを撃退したからです。
 最初の合戦は天正13年に攻め寄せた徳川勢は7,000人余、迎え撃つ真田勢は2,000人弱でしたが、真田氏の巧妙な戦術によって、徳川軍は思わぬ大敗となり、死者を1300人余も出しました。これに対し真田方の死者は40人ほどであったといいます。
 二度目の戦いは、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に向かう途中、上田へ押し寄せた徳川秀忠軍は、38,000人という大軍。これに対し、昌幸、幸村父子の率いる上田城兵は和図が2,500人ほどでした。しかし、この時も徳川勢は上田城を攻めあぐね、この地に数日間も釘づけにされただけに終わり、関ヶ原での決戦に遅れるという大失態を演じました。 ◆に続く


◆上田城は、いわば地方の小城であり、石垣も少なく、一見要害堅固な城に見えませんが、実際は、周囲の河川や城下町を含めた全体が、きわめてすぐれた構造となっていたことが現在、各術的研究によって明らかになってきています。全国に数多い近世城郭のなかで、二度も実戦を経験し、しかも常にこのような輝かしい戦果をあげた城は、ほかにありません。
 上田城はその後、徳川軍の手で破却されましたが、真田氏に代わり上田城に入った仙石氏によって寛永3年(1626)に真田氏時代そのままも形で上田城は復興され、仙石氏の後、松平氏の世となってもほとんど変化はありませんでした。
 廃藩置県後、明治7年、上田城は民間に払い下げられ、再び廃城となりました。
 その後本丸付近を一括して購入した丸山平八郎が明治12年、松平神社(現 真田神社)創建にあたり本丸南側の土地を神社用として寄付、ついで明治26年に残りの土地を遊園地用として寄付しました。これが上田城跡の公園化への第一歩となりました。
 現在三ノ丸地域は改変していますが、本丸・二ノ丸には土塁・堀跡などがあり、本丸の三基の隅櫓は昔の姿を留めています。
-HPより-
信州上田おもてなし武将隊
真田幸村と十勇士HP





平和の鐘  →
江戸時代には時の鐘として活躍したそうです。


お堀の水とその流れ
千曲川の第二段丘上に広がる上田城下町は、
ほぼ平坦ですが、東方の城下町が
城郭部分よりやや高くなっていました。
お堀に水を引くためにここを利用し
お城より約40km東を流れる神川を水源としました。
-立札より-



2012年 訪問時の案内板

上田城跡公園は進化充実したようです。

上田城跡公園を充実したものにするべく、
色々な調査が行われていました。





招魂社  →

←  二の丸橋



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