c115 横浜 外国人墓地

神奈川県(Kanagawa-Ken)
2019/06/02 Sun.  


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♪「カノン」パッヘルベル
オルゴール  バージョンです♪

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横浜 外国人墓地

前を通りかかると「見学しませんか?」と声をかけられ、寄ることにしました。





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No.c115 横浜 外国人墓地
No.c115 The Yokohama Foreigan General Cemetery

Kanagawa-Ken /Beautiful Japan
Photo27pieces/GreenSeason
♪=カノン / パッヘルベル
◆理化学者:ゲールツ
◆ブラック:ジャパン・ガゼット刊行、最初の外国出身落語家
◆マイヨ:明治天皇への仏語御前講義
◆モレル:日本初の鉄道建築師長
◆シドモア:米ポトマック河畔への桜の移植、文筆家
◆カイバー:フェリス女学院第3代校長
◇墓地、歴史
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インフォメーション
公式サイト

所在地=〒231-0862 神奈川県横浜市中区山手町96
TEL=045-622-1311
公開日=2月~7月、9月~12月土日祝(雨天を除く)
公開時間=12:00~16:00
料金(維持保存募金)=一般:200円~300円
交通アクセス
みなとみらい線=元町中華街駅6番口アメリカ山公園経由で徒歩3分
横浜市営バス=11系統、20系統『港の見える丘公園」バス停より徒歩1分
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A.J.C.ゲールツ  1869年来日

 オランダ人の理化学者で、長崎医学校の教師の後、東京で薬品輸入検査に従事した。1876年横浜司薬場が設立され、主任となった。(後の横浜衛生試験所)日本薬局方制定や検疫消毒種痘など衛生事業に尽くした。
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ここを訪れたのは、小学校の校外授業見学で来て以来、
ウン十年ぶりです。
墓地前は通っても、中に入ることはないので。

当時 墓標にひび割れのあるのは
一家の主(あるじ)のお墓のしるしだと聞き
それが小学生の私には印象的でした。

現在は違うかもしれませんネ。







J・R・ブラック  1861年来日

 英国軍人であったが、横浜に来て日刊紙「ジャパン・ガゼット」を刊行した。日本政府は新聞発行に干渉し、ブラックは上海に渡ったが、病傷で横浜にて静養し、「ヤング・ジャパン」の執筆を始め出版間近に死去した。これは1858年から21年間の回想録である。
外国出身の落語家でもあった。
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SJCマリア像
SAINT JOSEPH'S COLLEGE
A MARIANIST SCHOOL
1901-2000

セントジョセフカレッジ閉校後
旧校庭より同窓会が記念碑として移築
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法蘭西人理学士邁譽君墓
H.J.マイヨ  1870年来日

 フランス人で大学南校(現東京大学)のフランス語と物理学の教師となった。1872年、明治天皇がフランス語の授業をご覧になったこともある。谷中の天王寺にもマイヨの墓碑がある。
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エドモンド・モレル

1865年 英国土木学会員に選ばれる。1870年、鉄道敷設を計画していた日本政府は初代鉄道建築師長として雇用し、10数名の技術者とともに日本に招いた。1872年を目標に新橋~横浜間の鉄道事業はモレル監督のもと着手されたが、日本の鉄道開通を見ずに1871年29歳で他界。イギリス人
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準鉄道記念物
ヘンリー・ホートン

1873年 関西地区の鉄道技師(客車荷車頭取兼組立方)として採用された。翌12月から東京へ転任、無期限雇用となったが、1878年2月に死去。墓石は準鉄道記念物に指定後、新しく修復された。 
イギリス人
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準鉄道記念物
チャーレス・キングストン

1871年6月より鉄道巡査取締役として雇用されたが、1873年病気のため免職となる。しかし、在職中の勤務成績の良かったことが評価され、当初の契約条件とは別に退職時に3ケ月分の給料を支給されることになった。同年、英国に帰国準備中に横浜で死去。
イギリス人
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準鉄道記念物
ジョン・イングランド

1870年、明治政府に招かれエドモンド・モレル建築師長の下で建築副役として新橋~横浜間の測量を行った。同年7月には大阪~神戸間の測量に従事した。1874年から関西方面の業務を担当し、日本最初のトンネルである石屋川トンネル工事などを監督した。1877年4代目の建築師長に昇任したが、同年53歳で死去。  イギリス人
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準鉄道記念物
セオボールド・パーセル

1871年より5年契約で医官長として雇用された医師。1876年6月より工部本省の配属となり継続雇用された。横浜駐屯イギリス海軍所属の医師であったが、なれない異郷で病気になるお雇い外国人の増加に伴い、工部省の要請で、彼らの健康管理にあたった。 
イギリス人







エドウィン・ホイラー

1870年に来日、イギリス公使館付属医師となった。翌年パーセルの助手として工部省に採用され、医療活動に貢献した。1876年6月に退任し、横浜の病院で医師として長年勤続していたが、1923年の関東大震災で不慮の死をとげた。 イギリス人
※ アメリカ山公園で、E.Wheeler(ウィーラー)と紹介しています。
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シドモア

 この墓には、母親と息子と娘の3人が眠っている。息子は外交官でのち弁護士を開業した。1歳下の妹はジャーナリストであった。娘エリザ・シドモアはワシントンに日本の桜を植えて名所にしようとタフト大統領夫人ヘレンにはなした。多くの困難があったが、1912年の春ワシントンで植樹式が行われエリザの提言が、見事に実現した。スイスで没したが、日本政府がその死を悼み、ここに葬った。
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かめれおん日記(敦の場所)
小説家 中島敦(1909~1942)

昭和8年から16年まで市立横浜高等女学校(現横浜学園)の国語教師を勤めた。元町や山手の丘は敦の散歩道であり、外人墓地もよく訪れた。作品「かめれおん日記には「スイドモア(シドモア)氏の碑の手前に腰を下ろす」とあり、散歩の途中ここで休み、港の景色を眺めたことがうかがわれる。
中島敦の会 横浜ペンクラブ  1989.3
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F・エヴラール  1867年来日

 パリ外国宣教会の司祭で新潟に赴任した新潟では青年原敬も彼にフランス語を学んだ。18年間フランス公使付通訳として勤務し勲五等雙光旭日章を贈られた。新潟、盛岡、名古屋、静岡、横浜、東京などで宣教活動に従事され、勲四等瑞宝章を授与された。フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を受章されている。
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H・L・グラウエルト 1858来日

 カトリックの信仰を持っておられるオランダ貴族の生まれで、横浜に居住。貿易に尽し国際文化交流に尽力した。ジーラル神父を助け、私有地や私財を投じて山手に新聖堂が建設された。シティ・カウンセルの初代理事となった。
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J・M・カイパー 1905年来日

 フェリス和英女学校(現 フェリス女学院)校長で、1923年9月の関東大震災で2学期の準備の執務していたため殉職した。現在のフェリス女学院の礼拝堂はカイパー記念講堂と名付けられている。
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ジョン・ダイアック

1870年 明治政府に採用され、エドモンド・モレル建築師長の下で建築副役として、新橋~横浜間の測量に従事した。この測量の第一杭は彼によって打ち込まれており、杭の打ち込まれた跡には現在 0 哩標識が建てられている。その後神戸~大坂~京都間の測量や工事を担当する。1876年に退職。1900年72歳横浜で死去。 イギリス人
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T・トーマス 1861年来日

 愛称は「トム」で、手形の仲買人であり、居留地の公共的な仕事を積極的に行った。日本最初の洋式競馬「日本レースクラブ」の理事も22年間つとめた。
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横浜共立学園創立者 ミセス ピアソン
L・H・ピアソン 1871来日

 アメリカ婦人一致外国伝道協会の宣教師として来日、到着2か月後には山手にアメリカン・ミッションホーム(現横浜共立学園の前身)を創立し校長をつとめた。1891年に偕成伝道女学校を設立し、生涯を女子教育にささげた。
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S・エルドリッチ 1871年来日

 1868年医学博士の学位を取った。日本では開拓使顧問として函館に来て、函館医学所教授に就任した。のち横浜に転じ十全病院の外科医となった。火葬の提唱者でもあった。1897年、多年の功績で勲四等旭日章を贈られた。
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J・ウォルター 1867年来日

 ロンドンの生糸商に勤めていたので、横浜でもブレンウォルド商会で生糸の輸出の仕事をした。同社が明治中期の日本の生糸輸出の50%ほどを扱ったのはウォルターさんの手腕で、日本人にはワタリさんと呼ばれて親しまれた。
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J・F・ラウダー 1861年来日

 横浜駐在のイギリス領事で、1862年S・R・ブラウン宣教師の長女と結婚した。日米会話書も出版している。夫人ジュリアは1902年夫を亡くした後、横須賀のキリスト教会で尽くした。S・R・ブラウン博士は日本のキリスト教界の人物を多く育てた。
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David Jackson

1878年入行以来26年間 HSBC に勤務した。1903年、日本の外債発行に協力した功績により、勲四等旭日章を授与された。著名な Thomas Jackson の実弟。
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第一次世界大戦記念碑





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冊子と現地説明パネル、公式サイトを参考にしました。


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