c134 飛鳥山 渋沢史料館

東京都(Tokyo-To)
2019/08/10 Sat.  


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♪「アイネクライネナハトムジーク」モーツァルト
電子音楽  バージョンです♪

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公益財団法人  渋沢栄一記念財団

飛鳥山 渋沢史料館






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No.c134 飛鳥山 渋沢史料館
No.c134 Shibusawa Museum

Tokyo-To /Beautiful Japan
Photo23pieces/GreenSeason
♪=アイネクライネナハトムジーク / モーツァルト
◆公益財団法人  渋沢栄一記念財団 
◆青淵文庫
◆晩香盧
◆最も美しい空間
◆ステンドグラス
◇博物館
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あすかやま 燈籠




インフォメーション

所在地=114-0024 北区西ヶ原2-16-1(飛鳥山公園内)
TEL=03-3910-0005
開館時間=10:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日=月曜日(祝日の場合は営業/その週の1日)
.     12/28~1/4)
三館共通入館料:一般:300円 / 小・中・高=100円
駐車場=なし
交通アクセス
JR京浜東北線:『王寺駅』南口より徒歩5分
東京メトロ南北線:『西ケ原駅』より徒歩7分
土電荒川線:『飛鳥山停留場』より徒歩4分
都バス:『飛鳥山停留所』より徒歩5分
北区コミュニティバス:『飛鳥山停留所』より徒歩3分
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渋沢史料館 入口






 先日、飛鳥山の渋沢史料館と付随する青淵文庫と晩香盧を訪ねました。
展示された史料から、現存する会社、銀行など500社の設立、経営指導に尽力し、民間経済外交、社会公共事業等に取り組み近代日本の経済社会の基礎を作ったことを知りました。

私の知るどれもこれも、深い関わり合いがあることに驚き、知れば知るほど偉ぶらす、権力をかざさない道徳的な人格に、尊敬の念を抱かずには居れませんでした。

館内は、撮影禁止で、可能な場所と、外からの写真をご紹介します。

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 飛鳥山公園内に3つある博物館(紙の博物館/北区飛鳥山博物館/渋沢史料館)の一つです。

渋沢史料館は、渋沢栄一の生涯と事績に関する博物館(登録博物館)で、展示室のある本館のほか、渋沢栄一の旧邸として大正期に建てられ重要文化財に指定されている晩香廬(ばんこうろ)と青淵文庫(せいえんぶんこ)を公開しています。管理運営は、公益財団法人渋沢栄一記念財団。
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露台下より出土した『まぐさ』

 露台下部の堀削中に土の中より発見された物で、扉や窓の開口部上部に架ける「まぐさ」と呼ばれる部材で、形状、寸法から「控室」(台所北側)出入り口の「まぐさ」であることが判明した。
 表面に張られたタイル裏面の刻印『泰平』の文字の跡や鋼製建具を固定した金具、壁の漆喰塗が残っていることから、建物は、タイルを張り建具を取りつけ、壁の仕上げを終えた完成間近の状態で1923(大正12)年9月に、関東大震災によって壁が崩れるなどの大きな被害をうけたことがわかる。
 また、タイルは京都の「泰平居」という工房でつくられたこと、青淵文庫の主要構造は煉瓦造りであったが、「まぐさ」部分には鉄筋コンクリートが用いられていたこと、などがわかる。
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露台基礎

 青淵文庫創建時の露台(那智黒石が敷つめられたテラス部分)基礎の一部である。コンクリートを打った上に煉瓦を積み、基礎としている。
 煉瓦の上には、露台の縁石として御影石を敷き並べていた。
 桝と土管は雨水を排水するためのもので、排水口には鋳物のふたを設置していた。露台には緩やかな勾配がついており、雨水は露台の端の要所に設けられた集水桝に流れ、各桝をつなぐ土管を流れ、下水本管に排水されていたようである。
 2002(平成14)年の修理で、露台の基礎は補強のため鉄筋コンクリート造に改められた。
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青淵(せいえん)文庫





青淵(せいえん)文庫/入口

この建物は1925(大正14)年に竜門社(現在の公益財団法人渋沢栄一記念財団)が、渋沢栄一の傘寿(80歳)と子爵に昇格したお祝いを兼ねて贈りました。完成目前の1923(大正12)年、関東大震災の為工事は一時中断し、震災の経験を活かして再工事が行われました。収蔵する予定であった「論語」をはじめ多くの書籍や資料などが震災で焼失したため、竣工後は主に接客の場として使用されました。








閲覧室









ステンドグラス

 タイルと同じく渋沢家の家紋をモチーフにし、柏の中央には『壽』の飾り文字、文字の周りにどんぐり、それから唐草、雲などが見えます。
両脇に昇り龍と降り龍が居ます。
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青淵の由来

 青淵という雅号は1857(安政4)年頃、当時渋沢栄一が住んでいた家(現在の埼玉県深谷市)の下に淵があり、渕上小屋と呼ばれていたことにちなみ、従兄の小高惇忠によりつけられました。
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階段

階上は STAFF ONLY







最も美しい空間
階段

上へ上へと続く曲線美は、貴族正しく繰り返す幾何学模様の手すり。窓から注ぐ陽光、素敵なことが起きそうな雰囲気のある階段です。
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晩香盧(ばんこうろ)




晩香盧

 晩香盧は、渋沢栄一が 77歳 喜寿を変えた時に清水組から贈呈された 洋風茶屋です。

 何故このような大きな贈り物をしたのか、それは同社が、危機を迎えた時、栄一は支援・助言を続け、その後も相談役となり常に見守り続けたからでした。


















晩香盧 国指定重要文化財

 渋沢栄一は晩香盧を主に接待・接客の場として使用しました。
 晩香盧の名は「題晩香盧壁」という栄一自作の漢詩から命名されています。人生の晩節における精錬された生き方の教訓であり、これこそが自分の人生に必要であると詠んだ漢詩の光景は、もしかすると談話室の応接セットの椅子に腰かけて、窓外の豊かな自然を眺めるとわかるのかもしれません。
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晩香盧/電灯笠

 見上げるとガラスに淡貝の薄片を貼りつけて作ったコードペンダントが釣り下がり、そこから虹色に輝く美しく上品な光が室内にこぼれます。
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飛鳥山公園

八代将軍徳川吉宗は江戸庶民の行楽地として飛鳥山に千本以上の桜を植樹しました。以降、現在に至るまで桜の名所として親しまれています。

3月下旬~4月ごろ さくら
4月~5月 ツツジ
6月 あじさい
10月~11月 もみじ
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旧渋沢庭園

 栄一は1879年、飛鳥山の地に賓客接待用の別邸をかまえました。以降、庭園内を整備し、日本館、西洋館、茶室、文庫などを建設しました。1901年からは飛鳥山の邸宅に移り住み、1931年に、91歳で亡くなるまで本邸として使用しました。その後、1945年4月の空襲により、建物の多くを焼失しましたが、、晩香盧、青淵文庫など一部は現存します。
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晩香盧近くの渋沢栄一像

渋沢栄一
 1840年、現在の埼玉県深谷市に生まれ、農業・商業を営む家業を手伝う傍ら、尊王攘夷思想に傾倒しましたが、縁あって一橋慶喜の知遇を得て家臣となりました。
 1867年パリ万国博覧会の幕府施設の一員として渡仏し、ヨーロッパヨーロッパの文明に触れ、感銘を受けました。帰国してからはその経験を活かし、民間の立場から約500社にのぼる株式会社、銀行などの設立、経営指導に尽力し、民間経済外交、社会公共事業に取り組み近代日本の経済社会の基礎を作りました。
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山形亭跡

 丸芝をはさんで本邸・西洋館と対した築山にあった亭(あずまや)で「六角堂」とも呼ばれていました。この亭の名前は、六角形の土台の上に自然木を巧みに組んだ柱で、山形をした屋根を支えていたところからつけられたようです。西洋館の書斎でくつろぐ栄一が、窓越しにぼんやりと見える花形亭を遠望する写真が残されています。
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資料館冊子を参考にしました。


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