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所在地=112-8680 東京都文京区関口 2-10-8 営業時間=11:00~21:00 TEL=03-3943-1111 /FAX=03-3943-2300 ホテル・レストラン・喫茶室等利用者は庭園散策できます。 |
JR「目白」駅より都バス ホテル椿山荘東京行きまたは、 新宿西口行き→約10分『ホテル椿山荘東京前』下車 |
目白通りから焦雨園(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂です。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれます。東は関口芭蕉園です。 坂が険しく、自分の胸を突くようにしなければ上がれないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前です。 ぬかるんだ間雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした王子の人々の苦労がしのばれます。 |
江戸時代中期の画家、伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)の下絵による五百羅漢の内の約20体で、京都伏見の石峰寺にあったものを大正14年頃に移されたとされています。 |
三重塔は、もともとは広島県の竹林寺に建てられていたもので、国の登録文化財に指定されています。椿山荘庭園へは大正14年(1925)、山縣有朋公から庭園を譲り受けた藤田組二代目当主 藤田平太郎男爵によって移築されました。平成22年(2010)には移築後初めての大規模改修を行い、新たに聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)が奉安され、この時に塔は「圓通閣(えんつうかく)」と名付けられました。 |
林泉回遊式庭園の椿山荘は明治の元勲山県有朋公爵の命名によるものです。 ここ椿山荘周辺は古来より椿の自生する景勝の地として知られ、南北朝時代のころから『つばきやま』と呼ばれていました。江戸時代の代表的な浮世絵版画家・・安藤広重の作品『名所江戸百景』でも取り上げられています。 明治11年、山県公が私財を投じてこの地を入手すると、つばきやまの名にちなんで「椿山荘(ちんざんそう)」と名付けて築庭に力を注ぎ、約2万坪の起伏豊かな地形を巧みにいかし、今日に見る名園に造り上げました。当時、明治天皇をはじめ政財官界の第一人者たちがしばしばこの椿山荘を訪れ、重要会議を開いたと伝えられています。 その後、山県公爵からこの名園を譲り受けた藤田平太郎男爵が、三重塔をはじめ歴史をしのばせる文化財の数々を随所に配し、その風情を一段と高めるに至りました。 こうして受け継がれてきた伝統は、今日も都心で豊かな四季が味わえる数少ない名園を育みつづけ、近代的諸設備を誇る施設の数々とともに、椿山荘を名実共に日本を代表するガーデンレストランとして位置付け、日々内外のお客さまを迎えています。 |
この丸型大水鉢は、京都府東山区粟田口から蹴上を経て山科に通じる日ノ岡峠にあったもので、木食上人 養阿正禅(ようあしょうぜん)が旅人のために作ったものと伝えられています。この水鉢は牛車の轍が刻まれた敷石とともに保存されていますが、日ノ岡峠を越える人々が水鉢に溢れる清水で肌を冷やし喉を潤した往時がしのばれます。 木食上人・・・米、麦、粟、稗、豆の五穀を断ち、木の実などを食とする戒律を守り、仏の道を修める僧の事です。 |
ニワトリの形をしたこの神は、2009年からこの庭園の七福神に仲間入りしました。 いつの日からかニワトリは、その翼で飛ぶここをやめ、庭の中の安心や幸せを守る神として崇められています。 今日もチョコチョコ歩き回り、この庭を守ってくれています。 |
もと文京区林町にあった紅葉旅館の離れだった旧・某氏邸を譲り受け、昭和29年(1954)に移築しました。 北側は一部増築したが、入口から南側の部分には手斧(ちょうな)やくさびを使用していた痕跡が見られることなどから、室町期、太田道灌の活躍していた時代に作られたものと伝えられています。 |
樹齢約500年、庭園最古の椎の樹木。根本の周囲は4.5m、高さは20m。東京大空襲の大火の中も生き抜き此の地の歴史を見つめ続けています。 |
小千谷 錦鯉 寄贈 新潟県小千谷市(2019年12月)
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