
奉安塔 相輪
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No.c264 池上 本門寺
No.c264 Ikegami Honmon-Ji
Tokyo-To /Beautiful Japan
Photo 29 pieces/GreenSeason
♪=エリートシンコペーション /S.Joplin
◆日蓮宗大本山 長栄山池上本門寺
◆大堂、仁王門、長栄堂
◆此経難持坂、日蓮聖人
◆大野伴睦、萩原吉太郎
◆児玉誉士夫、永田雅一
◆目加田種太郎、永昌院 薫姫
◇寺、墓地
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経堂
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長栄山 池上本門寺 インフォメーション
   
所在地=〒146-8576 東京都大田区池上 1-1-1
TEL=03-3752-2331 / FAX=03-3752-3350
無料駐車場=あり
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交通アクセス
東急池上線『池上』駅から徒歩10分
都営浅草線『西馬込』駅南口から徒歩12分 |
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大堂(祖師堂)
   
旧大堂は、昭和20年4月15日の空襲で焼失、戦後は仮堂でしのぎ、第79世伊藤日定聖人が精力的に各地を行脚し、全国の檀信徒並びに関係寺院等からの浄財寄進を得て、昭和39年、ようやく鉄筋コンクリート造りの大堂の再建にこぎつけました。聖人は落慶後ほどなくして遷化されたため、大扁額「大堂」は第80世金子日威聖人の揮毫です。
日蓮聖人の御尊像(祖師像)を奉安し、左に日朗聖人像、右に日輪聖人像を安置しています。 |
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池上本門寺 縁起
池上本門寺は、日蓮聖人が1282年(弘安5)61歳で臨終を迎えた霊跡です。日蓮聖人は9年間住み慣れた身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かわれ、その途中、武蔵国池上の郷主・池上宗仲公の館で亡くなりました。
長栄山本門寺という名前の由来は「法華経の道場として長く栄えるように」と日蓮聖人が名付けました。 |
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大田区文化財 梵鐘
青銅製鋳造 総高 225cm
   
正徳4年(1714)紀州粉川(粉河)の鋳物師 木村将監藤原安成によって改鋳されたものである。宝永7年(1710)の火災により旧鐘が損傷し、改鋳したと伝えられる。旧鐘の銘文が再刻されており、元々は正保4年(1647)、瑶林院(紀伊徳川頼宣の室・加藤清正の娘)によって寄進されていたことが知れる。
昭和20年(1945)4月の空襲で一部に亀裂と歪みを生じ、現在は鐘楼脇に保管されているが、江戸時代初期の形式を示す作品であるとともに、旧鐘の銘文」が再刻されていることも貴重である。 |
昭和49年2月2日指定 -大田区教育委員会-
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鐘楼の柱の絵
   
内側の四面にも、この絵が描かれて親しみを感じました。
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浄行菩薩(じょうぎょうぼさつ)さま
   
自分の体と心を浄めてくれます。
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日朝堂(常唱堂・題目堂)
学業成就、眼病平癒
   
日朝上人:"六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)のうち特に
眼根に障害があると仏教修行の妨げになる。
自分はこのことを実際に経験したので、死後
眼病の人を守護することを誓う″と言ったそうです。
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仁王門(三門)
   
昭和20年4月15日の空襲で灰燼に帰し、52年に再建、
仁王尊は54年に新造されました。
三門、正式には三解脱門の略。
中心伽藍へ入る重要な門であり、
三種の解脱(さとり)を求めるものだけが通れる。
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仁王門 扁額
   
扁額「長栄門」は第80世金子日威聖人の揮毫。
『栄』の字は旧字ですが、伝統的な習慣で、火伏のため、
冠を「火」二つでなく「土」二つとしてあります。
網がかかりわかりづらいですね。
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此経難持坂
96段の石積参道
   
加藤清正公の築造寄進
坂の名称の由来は、『妙法蓮華経』見宝塔品第11、
此経難持の愒文96字に因み、経文を読誦しつつ上れば
自然にのぼれると言い伝えられています。。
階段を下りた先は 総門です。(画像はありません)
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此経難持坂
96段の石積参道
   
登りきったところです。
今日のお供は、ペネロペです。
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日蓮大聖人説法像
星 亨 銅像跡
    日蓮聖人:「清浄な心で熱心にお題目を唱えることにより
真実の生き甲斐を感ずるようになる」とのおしえです。
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この像は宗祖第七百遠忌記念として昭和58年富山県新湊市の黒谷美術株式会社より奉納されたもので斯界の権威:北村西望先生の作品です。(像の材質は純アルミ、高さ3.4m、重量1t)
元ここには明治の政治家 星亨先生の銅像がありましたが、今般星家の協力により台座を奉納頂きこの像を建立しました。 |
昭和58年10月吉日 大本山 池上 本門寺
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長栄堂(大黒天)
   
昭和34年に再建されたお堂で
守護神「長栄大威徳天」を奉安しています。
現在のお堂は昭和34年に再建されました。
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竹箒でお掃除をするお地蔵さん
   
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お墓巡り
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前田利家室の層塔
大田区文化財
   
この塔は、前田利家の側室、寿福院が元和8年(1622)に、自身の逆修供養のために建てた11重の層塔である。このことは本門寺15世紀(復暦)日樹の銘文でわかる。
寿福院は、第三代加賀藩主、利常の生母で豊臣秀吉没後、徳川家との微妙な臣従関係を解決するために、江戸に差し出され人質となった。
現在、相輪と上部の数層を失って、わずか五重を残すのみである。屋蓋の反り具合から見て様式的に古い形を示し注目される。
なお、天保4年(1833)の修復銘もある。 |
昭和49年2月2日指定 -大田区教育委員会-
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力道山
   
(りきどうざん)本名:百田 光浩(ももた みつひろ)、出生名:金 信洛(きん しんらく)
924年11月14日 - 1963年12月15日)
日本の男性プロレスラー、力士。血液型AB型。日本統治下の朝鮮の咸鏡南道洪原郡出身。 |
-wikipedia』力道山 より引用-
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墓地の番人・カラス
   
ボランティアと思われるお墓案内人に案内され、
近くにいた数人と、歴史上の人物のお墓を巡りました。
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大野伴睦
   
(おおの ばんぼく)本名:大野 伴睦(おおの ともちか)
1890年(明治23年)9月20日 - 1964年(昭和39年)5月29日
日本の政治家。
東京市会議員を経て衆議院議員となり、衆議院議長、国務大臣北海道開発庁長官、日本自由党幹事長、自民党副総裁を務めた。没後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。
典型的な党人政治家として知られ、「伴ちゃん」の愛称で親しまれた。また、「政治は義理と人情だ」「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」等の名言を残した。
タカ派の政策集団・青嵐会を結成し、後に農林水産大臣・科学技術庁長官などを務めた中川一郎の政界での師匠として知られる。 |
-Wikipedia大野伴睦 より引用-
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大野伴睦の墓地の灯籠に刻まれた3人の名
永田雅一と児玉誉士夫
   
萩原吉太郎
(はぎわら きちたろう)
1902年(明治35年)12月15日 - 2001年(平成13年)8月8日
日本の実業家。
北海道炭砿汽船(北炭)、札幌テレビ放送(STV)社長などを務めた。
埼玉県蕨町(現:蕨市)で生まれる。1926年(大正15年)慶應義塾大学理財科(現:経済学部)を卒業[1]。在学中は吉田茂内閣の文相となる高橋誠一郎教授に認められ、学校に残ることを勧められたほどであった。 |
-Wikipedia萩原吉太郎 より引用-
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四国讃岐守 6代高松藩主 松平頼真 卿 正室の墓
   
このお墓は、水戸徳川家の流れをくむ讃岐高松藩6代藩主の正室「永昌院薫姫」(紀伊徳川宗直の十女)(1744~1785)のものです。
正室でありながら子はなかったようで、8代高松藩主「 松平頼儀」(1775~1829)は、側室の即就院中山ハナの長男 頼儀(雄丸)です。 |
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白髪の案内人と案内してもう人々。
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児玉誉士夫
   
(こだま よしお)
1911年(明治44年)2月18日 - 1984年(昭和59年)1月17日
日本の右翼運動家。
自称CIAエージェン。暴力団・錦政会顧問。戦争中、海軍航空本部のために物資調達を行い、終戦時までに蓄えた物資を占領期に売りさばいて莫大な利益を得た。この豊富な資金を使って、戦後分裂状態にあった右翼を糾合し、鳩山一郎など大物政治家に政治資金を提供した。「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた。日韓国交正常化交渉に関与した。1960年、生前葬を行う。河野一郎や大野伴睦といった大物政治家が児玉のための葬儀に集まり焼香した。戒名は雄心院思国日誉大居士。墓所は東京都大田区の池上本門寺。 |
-Wikipedia児玉誉士夫 より引用-
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永田雅一
   
(ながた まさいち)
1906年〈明治39年〉1月21日 - 1985年〈昭和60年〉10月24日
日本の実業家。
映画プロデューサー、プロ野球オーナー、馬主。昭和初期から後期(1930年代後半 - 1980年代前半)に活動。大映社長として「羅生門」などを製作。プロ野球大映球団のオーナーとなり、パ・リーグの初代総裁。大言壮語な語り口から「永田ラッパ」の愛称でも知られた。
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-wikipedia永田雅一 より引用-
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目加田種太郎
   
(めがた たねたろう)
1853年8月25日(嘉永6年7月21日) - 1926年(大正15年)9月10日
日本の政治家・官僚・法学者・裁判官・弁護士(代言人)・貴族院議員・国際連盟大使・枢密顧問官。男爵。
専修学校(現:専修大学)の創始者の一人である。また、東京音楽学校(現:東京藝術大学)創設者の一人でもある。 |
-wikipedia目加田種太郎 より引用-
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他、多くの有名な方、歴史上の人物が眠られていました。
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池上会館屋上展望台
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| 池上会館は大田区にある公共施設で、会議室や集会所などのある4階建ての建物です。その屋上には庭園があり、花木が植えられ、ちょっとした休憩にぴったり!
北にはすぐ近くの池上本門寺境内と国指定重要文化財の五重塔が見えます。 |
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都心方面の空には黒い雲が広がっています。
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