n110 トキワ荘 2 ヒーローたち
東京都(Tokyo)
2015/03/08 Sun .


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♪「ラグタイムダンス」S.Joplin
ピアノ  バージョンです♪

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青い文字は、前ページの復唱です。








トキワ荘のあった、現在の豊島区南長崎3丁目の周辺の
①公園 ②住宅跡 ③トキワ荘通りお休み処 の
3か所を訪ねました。 まずは公園です。

記念碑 トキワ荘のヒーローたち 記念碑

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No.n110 トキワ荘 2
No.n110 Tokiwa apartment 2

Tokyo-To /Beautiful Japan
Photo23pieces/GreenSeason
♪=Cleopha
◆南長崎花咲公園
◆トキワ荘跡地
◆まつばラーメン屋さん
◆トキワ荘通り お休み処
◆手塚治虫、寺田ヒロオ
◇記念碑、マンガ聖地
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南長崎花咲公園

 この付近に手塚治虫、赤塚不二夫、藤子不二雄などが住んでいたトキワ荘があったことから、地元の方の呼びかけによって、平成21年4月「トキワ荘のヒーローたち」の記念碑が立てられ、町の新しい名物となっています。
所在地:豊島区南長崎3-9-22
アクセス:都営大江戸線『落合南長崎駅』
公園全体の写真を撮り忘れました。^^*








この地図から、トキワ荘の場所がわかりました。

記念碑「トキワ荘のヒーローたち」
 トキワ荘は、豊島区椎名町5丁目(現・南長崎3丁目)にあったアパートです。1953年(S28)その二階に、漫画家の手塚治虫が入居しました。家賃は3000年押入れ付き四畳半の部屋でした。そのころ椎名町を始めとする西部線沿線地域には多くの漫画家が住んでおり、手塚もこの地域にあこがれ、雑誌『漫画少年』の編集者の紹介で入居したといわれています。この年の末に同じく編集者の紹介で寺田ヒロオも入居します。
 翌年、手塚は豊島区雑司が谷のアパート並木ハウスへ転居します。その際、トキワ荘の空いた部屋の敷金をそのままにしておくからと、藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄(A))に入居を勧めます、彼らが喜んで憧れの手塚の部屋に入居したのは有名な話です。
 その後も鈴木伸一、森安なおや石ノ森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、よこたとくお等が、漫画家を志して入居します。二十前後で上京した彼らは、お互いに励ましあいながら創作に打ち込みました。ひたむきに仕事に取組み、仲間と集う日々は、笑いと活気に満ちたものでした。
 寺田は、若手漫画家らと「新漫画党」を結成し、トキワ荘を拠点に活動します。その頃には、通ってくる漫画家も多く、トキワ荘は“漫画家の梁山泊”とも言われました。記念碑のトキワ荘入口にあるスクーターは、熱心な通い組であった、つのだじろうのものをイメージしています。この他にも、永田竹丸、横田孝雄、長谷邦夫など、記念碑に刻み込めないほど多くの若い漫画家たちがトキワ荘に通っていました。
 手塚を慕う若手漫画家らが集ったトキワ荘。彼らの活躍によって、トキワ荘は現存しませんが、この地で若き漫画家、編集者、プロダクションなど多くの方々から多大なるご協力を頂きました。
2009年10月        豊島区


◇トキワ荘のヒロー達 
写真に書かれた白抜きの文字を入力しました。

◇トキワ荘のヒロー達手塚治虫◇
1953年入居~1954年退居
1928年大阪府豊中市に生まれる。5歳の時に宝塚へ引っ越し24歳で東京に活動の拠点を移すまで宝塚で育った。1946年「少国民新聞(毎日小学生新聞)」の「アマチャンの日記帳」でデビュー。代表作は「ジャングル大帝」「鉄腕アトム」「火の鳥」「ブラック・ジャック」等多数。1953年に『漫画少年』を発行している学童社の紹介で、新築間もないトキワ荘に入居する。ほぼ1年後に寺田ヒロオが向かいの部屋に入居するが、手塚治虫は宝塚の実家へ帰ったり、カンヅメになる事が多く、編集者の出入りも多かったため、寺田とは時たま言葉を交わす程度で親密な交流はなかったという。手塚にとってトキワ荘の時代は、「ジャングル大帝」の終盤や、『漫画少年』版の「火の鳥」が執筆された時期にあたる。1954年には、関西長者番付の画家の部でトップとなった。
年収は217万円であった。当時手塚は、マンが好きの子どもたちの間では有名であったが、世間的にはまだ知られていない若手マンが家だった。そのため、興味を持った『週刊朝日』の記者が取材に訪れるが、お世辞にも百万長者の家として似合っているとは言えないトキワ荘に驚いたという。トキワ荘に入居して2年にも満たない1954年10月、藤子・F・不二雄、藤子不二雄Aの両名と入れ代るように二人に敷金と仕事机を残して、雑司ケ谷の鬼子母神に近い並木ハウスに転居した。




よこたとくお◇
1958年入居~1961年退居
1936年福島県田村郡七郷に生まれる。上京後、プラスチック工場に勤めながら『漫画少年』に投稿を続け、赤塚不二夫、長谷邦夫らと知り合う。 さらに石ノ森章太郎が主宰する東日本漫画研究会の肉筆回覧誌『墨汁一滴』にも参加する。『漫画研究』に短編ギャクマンガを寄せている。1955年に、貸本マンガ『山びこ剣士』でデビュー。西荒川に赤塚と共同で下宿していたが、1956年に赤塚がトキワ荘に転居したのに続き、よこたも1958年トキワ荘に入居する。トキワ荘では、石ノ森と一緒に赤塚の母親に食事や洗濯などの世話をしてもらっていた。あまり自分のことをしゃべらず、人のことにも口を出さない性格で、ナイター中継をテレビやラジオで楽しんでいる姿がエッセイなどに書かれている。トキワ荘からは1961年に転居している。1963年に「マーガレットちゃん」を連載し、少年誌、少女誌の区別なくギャグマンガを発表し、学習漫画の世界でも活躍している。        ^^*







水野英子◇
1958年入居~1958年退居
1939年山口県下関市に生まれる。小学3年生のころからマンガ家を目指して雑誌に投稿し続けていたところ、中学生のころ投稿した原稿に目を止めた手塚治虫が『少女クラブ』の編集者、丸山昭に推薦した。カットが採用され 1955年にデビュー。更に“赤っ毛小馬”を発表する。初の連載は「銀の花びら」で、この連載中に石ノ森章太郎、赤塚不二夫との合作が行われ、U.マイア名義で「赤い火と黒かみ」を発表した。ところが、下関に居ながら東京の二人と合作するのはあまりにも手間がかかるので 1958年3月から10月までの間であるが、上京しトキワ荘に入居している。トキワ荘に住んだマンガ家たちの中で唯一の女性である。女性の入居をソワソワしながら待っていたトキワ荘の面々をたじたじとさせるほどの元気な女性だったという。




 赤塚不二夫◇
1956年入居~1961年退居
 1935年旧満州(中国東北部)熱河省に生まれる。戦後、引き上げを経験し、大和郡山、後に新潟に身を寄せる。手塚治虫の「ロストワールド」を読んで衝撃を受け、マンガを描き始める。絵に関係する仕事がしたくて、塗装店に勤めながら、1951年ごろから『漫画少年』に投稿を始める。1953年上京し、化学工場に勤めながら、マンガの執筆を続け、1954年に石ノ森章太郎が中心となって作られた東日本漫画研究会の肉筆回覧誌『墨汁一滴』に参加する。1956年上京した石ノ森を助け、石ノ森の部屋に居候の形でトキワ荘に入り、間もなく貸本マンガ『嵐をこえて』でデビュー。後11月に部屋が空くのを待って正式に入居する。丸山昭の提案で石ノ森と水野英子と合作をしながら、主に少女マンガを描いていたが、トキワ荘の仲間と比べて明らかに仕事が少なかった。マンガ家に向いていないのではと寺田ヒロオに相談したところ、当座の生活費を渡されて励まされたというエピソードがある。しかし、1958年にギャグマンガ「ナマちゃん」を連載し、これをきっかけにギャグマンガへの道を進み、成功をおさめる。1961年に結婚のため近くのアパートに転居した。その翌年、「おそ松くん」の連載が始まり、赤塚の快進撃が始まる。       ^^*

森安なおや◇
1956年入居~1956年退居
1934年岡山県岡山市に生まれる。高校在学中に『山陽新聞中学生版』に4コママンガが掲載されてデビュー。1953年に上京すると約半年、田河水泡の住込みの弟子となる。貸本などを中心に少女マンガを描く。代表作に「いねっ子わらっ子」「赤い自転車」などがある。1954年に結成された新漫画党のメンバーの一人であり、トキワ荘にもよく通いながら、『漫画少年』に合作やカットを発表する。トキワ荘に入居したきっかけは『漫画少年』廃刊後、住み込みで牛乳配達をしていたために漫画を描く時間が無いと困っていた時のこと、鈴木伸一が、自分がデザインスタジオに行っている昼間は部屋を使ってよいと招き入れてくれたので、1956年に約10ヵ月間、鈴木の部屋に居候していた。芸術家肌で、一作品を仕上げるにも何度も消しては描きなおす森安には、“締め切り”のある雑誌連載より貸本マンガの方が向いていたようである。1960年頃には、貸本業界の衰退もあり、マンガ家からは身を引き就職するが、マンガを描くとはやめなかった。ライフワークともいえる太平洋戦争時代の少年の成長をテーマにした長編「18才3ヵ月の雲」を20年かけて執筆したが、遂に未完に終わった。また亡くなる直前に、故郷岡山を舞台にした「烏城物語」が地元同級生有志の協力で出版されている。    

 石ノ森章太郎◇
1956年入居~1961年退居
1938年、宮城県登米郡(現登米市)中田町石森に生まれる。「サイボーグ009」「佐武と市捕物控」「仮面ライダー」「HOTEL」など、多岐にわたるテーマ・作風の作品を残す。『漫画少年』に投稿していたころから、天才少年と評され、手塚治虫がわざわざ指名して仕事の手伝いを頼んでいる。まだ高校在学中に『漫画少年』から「二級天使」の連載を依頼されるなど、その実力は誰もが認めていた。しかし、1955年、高校三年生の秋、卒業後上京した時に頼るつもりでいた『漫画少年』が廃刊となり大いに悩んだという。それでもマンガ家をめざし、卒業と同時に上京したのが 1956年である。上京当初は西落合に下宿するが、初めての独り暮らしで体調を崩したのを見かねた赤塚不二夫に助けられ、その年の5月にトキワ荘に転居した。赤塚とは上京前に『漫画少年』を通じての知り合いであり、自らが主宰する東日本漫画研究会の肉筆回覧誌『墨汁一滴』に最初から参加した中間でもあった。トキワ荘に入居後も、最も親しくつきあっていた。並木ハウスに手塚治虫を訪ねた時に知り合った『少女クラブ』の編集者、丸山明にも目をかけられ、赤塚、水野英子らと、U.マイアと言うペンネームで合作した作品なども含め、トキワ荘で次々作品を発表した。新しいものが大好きで、豪華なステレオセットや、8mm映写機などを購入し、部屋が手狭になったため、仕事部屋に隣の部屋を借りることになった。結局、石ノ森は新漫画党のメンバーとしては最後までトキワ荘に残り、1961年暮れに転居して行った。                  

藤子F不二雄◇
1954年入居~1961年退居
1933年富山県高岡市に生まれる。小学5年生の時に転校してきた藤子不二雄Ⓐと意気投合し、共作でマンガを描き始める。高校卒業後はマンガの執筆に専念する生活を選択。藤子Ⓐとの合作マンガ制作は続き東京の新聞や雑誌に投稿するようになる。1951年「天使の玉ちゃん」でデビュー。1954年6月、藤子Ⓐとともに上京し、両国森下町に下宿するが4ヶ月後、手塚治虫が並木ハウスに転居し、空いたトキワ荘の部屋に入居する。東京では、藤子Ⓐとコンビを組み、“藤子不二雄”のペンネームでプロ漫画家として活躍する。また、寺田ヒロオらトキワ荘の有志達と共に新漫画党を結成し、活動するようになる。藤子Fは真面目でおとなしいタイプではあるが、大のいたずら好きで、ろうでできたピーナッツや偽のラブレター、偽の弟子入りを仕組むなど手の込んだいたずらを仕掛けて楽しんでいたという。1961年には、トキワ荘を離れ、川崎に移り住む。1987年には藤子Ⓐとコンビを解消し、藤子・F・不二雄としての活動をスタート。「オバケのQ太郎(藤子Ⓐと共著)」「ドラえもん」「パーマン」「キテレツ大百科」など、児童マンガ家として数々の名作を生み出した。

藤子不二雄Ⓐ◇
1954年入居~1961年退居
1934年、富山県氷見市に生まれる。1944年、小学5年生の時に転校先で藤子・F・不二雄と出会い、共作でマンガを描き始める。1951年「天使の玉ちゃん」でビューを果たす。高校卒業後、富山新聞に入社するが、時間の合間を見てマンガを描き続け、藤子Fと共に、上京してマンガのプロになる事を決意する。  まずは下見として藤子Ⓐが単独で上京し、トキワ荘の手塚治虫を訪ねるが、手塚が忙しく話が出来なかった。その状況を知った寺田ヒロオが自分の部屋に藤子Ⓐを招き入れた。結局、1週間も寺田の部屋に滞在したのち帰郷する。 その後、藤子Ⓐは、藤子F と共に上京。1954年6月、二人が本格的に上京し、まずは両国森下町に下宿するが、4ヶ月後、手塚治虫が並木ハウスに転居し、空いたトキワ荘の部屋に入居する。東京では藤子Fとコンビを組み “藤子不二雄” 名義でマンガを描く。また、寺田ヒロオを中心に、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、つのだじろう、鈴木伸一らと新漫画党を結成し、活動する。藤子Ⓐは人づきあいが良い外向的な性格で、話し上手。トキワ荘で皆が集まると、笑いの中心にはいつも、藤子Ⓐがいたという。1961年にはトキワ荘を離れ、川崎に移り住む。1987年には藤子Fとコンビを解消、藤子不二雄Ⓐ として新たなスタートを果たす。「オバケのQ太郎(藤子Fと共著)」「まんが道」「少年時代」「笑うせぇるすまん」「忍者ハットリくん」「怪物くん」「プロゴルファー猿」など数々の名作を生みだした。                ^^*

鈴木伸一◇
1955年入居~1956退居
1933年、長崎県長崎市に生まれる、中学校卒業後、写真印刷会社に勤めながら『漫画少年』『少年クラブ』などに漫画やペン画を投稿する。マンガだけでなくディズニーの「シリー・シンフォニーシリーズ」をみてアニメーションの仕事にも憧れる。「白雪姫」の日本での初封切時に繰り返し40回も見たほどであった。1954年4月にマンガ家中村伊助を頼り上京し、居候生活の後、1955年8月にトキワ荘に入る。投稿時に「風田朗(かぜた・あきら)」と言うペンネームを使っていたので、トキワ荘のメンバーからは「フータロー」や「フーチャン」などと呼ばれていた。昼間はデザインスタジオに勤めながら、夜に少しばかり漫画を描いていたが、中村の紹介で夢であったアニメーション制作への想いが叶い、1956年に漫画家の横山隆一主宰のアニメ制作スタジオ『おとぎプロ』へ入社、同年5月に鎌倉の横山宅に住み込みのアニメーターとなる。「ふくすけ」「ひょうたんすずめ」おとぎの世界旅行」「プラス50000年」や日本初のテレビアニメ・シリーズ「インスタント・ヒストリー」などに参加。1963年におとぎプロを退社。トキワ荘仲間、藤子・F ・不二雄、藤子不二雄A石ノ森章太郎、つのだじろう、赤塚不二夫とアニメーション制作会社『スタジオ・ゼロ』を設立し、あみだくじで初代社長に就任する。スタジオ・ゼロでは「おそ松くん」「パーマン」「怪物くん」「ウメ星デンカ」「佐武と市捕物控」「歌謡まんが」などを制作。その他にもユネスコ・アジア文化センターの識字教育や環境問題のアニメ作品を制作する。 「オバケのQ太郎」などに登場する“ラーメン好きの小池さん”のモデルでもある。杉並アニメーションミュージアム館長。 ーーーーーー
アニメーション創作集団G9+1のメンバー。文星芸術大学客員教授。             ^^*

寺田ヒロオ◇
1953年入居~1957年退居
1931年新潟県巻町(現西蒲区)に生まれる。マンが意外に野球にも熱中していた事が、後に代表作となる「背番号0」や「スポーツマン金太郎」に生きている。1953年9月マンガ家になるために『漫画少年』を頼って上京し、その年の大晦日にトキワ荘に入居する。当初は『漫画少年』の仕事ばかりだったが、やがて『野球少年』に「背番号0」の連載を始めるようになる。1954年トキワ荘に住むマンガ家は手塚治のみだったが、東京進出の下見のため、藤子不二雄Aが手塚を訪ねてくる。寺田が藤子Ⓐを1週間ほど泊めたところ、意気投合し本格的に上京した時には若手マンガ家のグループを作ろうという話になった。これが新漫画党の発足につながる。新漫画党のメンバーからは良い兄貴分として慕われていた。しかし寺田本人は苦労性で、万一誰かに借金を申し込まれた時に、すぐに渡せるように、金をきちんと用意しておくような性格だった。寺田が東京で最も心を許せた友人はマンガ家の棚下照生(たなかてるお)であると寺田自身が語っている。1957年6月にトキワ荘を出た後も人気漫画家として活躍するが、マンガ界全体がより刺激の強さを求める風潮に、自身の求める良質な子どもマンガとのギャップを感じ第一線から退く。しかし、その後も『漫画少年』の紹介、復刻の仕事などを精力的に行った。

展示品:トキワ荘一室の再現

マンガを読んだことが無いので、これで悪しからずお許しを。
手塚治虫さんは知っています。
鉄腕アトムのアニメを見てました。
あとは、子どもたちがドラえもんを読んでいたので、
見たことがあるくらいの知識しかございません。(恥)




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