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この地図から、トキワ荘の場所がわかりました。
 
記念碑「トキワ荘のヒーローたち」
トキワ荘は、豊島区椎名町5丁目(現・南長崎3丁目)にあったアパートです。1953年(S28)その二階に、漫画家の手塚治虫が入居しました。家賃は3000年押入れ付き四畳半の部屋でした。そのころ椎名町を始めとする西部線沿線地域には多くの漫画家が住んでおり、手塚もこの地域にあこがれ、雑誌『漫画少年』の編集者の紹介で入居したといわれています。この年の末に同じく編集者の紹介で寺田ヒロオも入居します。
翌年、手塚は豊島区雑司が谷のアパート並木ハウスへ転居します。その際、トキワ荘の空いた部屋の敷金をそのままにしておくからと、藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄(A))に入居を勧めます、彼らが喜んで憧れの手塚の部屋に入居したのは有名な話です。
その後も鈴木伸一、森安なおや石ノ森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、よこたとくお等が、漫画家を志して入居します。二十前後で上京した彼らは、お互いに励ましあいながら創作に打ち込みました。ひたむきに仕事に取組み、仲間と集う日々は、笑いと活気に満ちたものでした。
寺田は、若手漫画家らと「新漫画党」を結成し、トキワ荘を拠点に活動します。その頃には、通ってくる漫画家も多く、トキワ荘は“漫画家の梁山泊”とも言われました。記念碑のトキワ荘入口にあるスクーターは、熱心な通い組であった、つのだじろうのものをイメージしています。この他にも、永田竹丸、横田孝雄、長谷邦夫など、記念碑に刻み込めないほど多くの若い漫画家たちがトキワ荘に通っていました。
手塚を慕う若手漫画家らが集ったトキワ荘。彼らの活躍によって、トキワ荘は現存しませんが、この地で若き漫画家、編集者、プロダクションなど多くの方々から多大なるご協力を頂きました。
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2009年10月 豊島区
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◇トキワ荘のヒロー達 ◇
写真に書かれた白抜きの文字を入力しました。
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 ◇トキワ荘のヒロー達 手塚治虫◇
1953年入居~1954年退居
1928年大阪府豊中市に生まれる。5歳の時に宝塚へ引っ越し24歳で東京に活動の拠点を移すまで宝塚で育った。1946年「少国民新聞(毎日小学生新聞)」の「アマチャンの日記帳」でデビュー。代表作は「ジャングル大帝」「鉄腕アトム」「火の鳥」「ブラック・ジャック」等多数。1953年に『漫画少年』を発行している学童社の紹介で、新築間もないトキワ荘に入居する。ほぼ1年後に寺田ヒロオが向かいの部屋に入居するが、手塚治虫は宝塚の実家へ帰ったり、カンヅメになる事が多く、編集者の出入りも多かったため、寺田とは時たま言葉を交わす程度で親密な交流はなかったという。手塚にとってトキワ荘の時代は、「ジャングル大帝」の終盤や、『漫画少年』版の「火の鳥」が執筆された時期にあたる。1954年には、関西長者番付の画家の部でトップとなった。
年収は217万円であった。当時手塚は、マンが好きの子どもたちの間では有名であったが、世間的にはまだ知られていない若手マンが家だった。そのため、興味を持った『週刊朝日』の記者が取材に訪れるが、お世辞にも百万長者の家として似合っているとは言えないトキワ荘に驚いたという。トキワ荘に入居して2年にも満たない1954年10月、藤子・F・不二雄、藤子不二雄Aの両名と入れ代るように二人に敷金と仕事机を残して、雑司ケ谷の鬼子母神に近い並木ハウスに転居した。 |
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よこたとくお◇ 
1958年入居~1961年退居
1936年福島県田村郡七郷に生まれる。上京後、プラスチック工場に勤めながら『漫画少年』に投稿を続け、赤塚不二夫、長谷邦夫らと知り合う。 さらに石ノ森章太郎が主宰する東日本漫画研究会の肉筆回覧誌『墨汁一滴』にも参加する。『漫画研究』に短編ギャクマンガを寄せている。1955年に、貸本マンガ『山びこ剣士』でデビュー。西荒川に赤塚と共同で下宿していたが、1956年に赤塚がトキワ荘に転居したのに続き、よこたも1958年トキワ荘に入居する。トキワ荘では、石ノ森と一緒に赤塚の母親に食事や洗濯などの世話をしてもらっていた。あまり自分のことをしゃべらず、人のことにも口を出さない性格で、ナイター中継をテレビやラジオで楽しんでいる姿がエッセイなどに書かれている。トキワ荘からは1961年に転居している。1963年に「マーガレットちゃん」を連載し、少年誌、少女誌の区別なくギャグマンガを発表し、学習漫画の世界でも活躍している。 ^^*
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水野英子◇  1958年入居~1958年退居
1939年山口県下関市に生まれる。小学3年生のころからマンガ家を目指して雑誌に投稿し続けていたところ、中学生のころ投稿した原稿に目を止めた手塚治虫が『少女クラブ』の編集者、丸山昭に推薦した。カットが採用され
1955年にデビュー。更に“赤っ毛小馬”を発表する。初の連載は「銀の花びら」で、この連載中に石ノ森章太郎、赤塚不二夫との合作が行われ、U.マイア名義で「赤い火と黒かみ」を発表した。ところが、下関に居ながら東京の二人と合作するのはあまりにも手間がかかるので
1958年3月から10月までの間であるが、上京しトキワ荘に入居している。トキワ荘に住んだマンガ家たちの中で唯一の女性である。女性の入居をソワソワしながら待っていたトキワ荘の面々をたじたじとさせるほどの元気な女性だったという。
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