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No.n201 亀戸天神社
No.n201 Kameido tenjin
Tokyo-To /Beautiful Japan
Photo28pieces/GreenSeason
♪=ジ・エンターテイナー
◆うその碑
◆琴柱灯籠、紅梅殿
◆菅原道真公・花園社
◆太鼓橋
◆カメ、アオサギ、セミ
◇神社、天神社、天満宮
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インフォメーション
〒136-0071
所在地=東京都江東区亀戸3丁目6番1号
電話=03-3681-0010
御祭神=天満大神(菅原道真公すがわらみちざね)
〃 =天菩日命(菅原家の祖神)相殿に祀る
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菅原道真公を祀る亀戸天神社は下町の天神さまとして
広く知られ、多くの方々に親しまれています。
古くはご本社にあたる九州太宰府天満宮に対して
東の宰府として「東宰府天満宮」、
あるいは「亀戸宰府天満宮」と称されていましたが、
明治6年に東京府社となってより亀戸神社と号し、
昭和11年に現在の亀戸天神社と正称しました。
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おみくじ結び所
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鳥居と太鼓橋≪女橋≫
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手水舎
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鷽(うそ)の碑
筑前の本太宰府天満宮御やしろに毎年正月7日
うそかへと云う事あり四方の里人木の枝其の他のものを
もてうそとりの形をつくり持きたり神前に於て互にとりかへて
其の年の吉兆を招くことになん是や今迄のあしきもうそとなり
吉(よき)に島かへんとの心にてうそかへといふ元(もと)より
此おん神の託(つげ)によりて始まれり直き心をもてすれば
誠の道に叶ふべしここに亀戸天神社はつくしのうつしなれば
文政3年この事を始めて毎年正月24日5日うそ鳥の形をつくり
境内に於てうらしむれば信心の人々かひ求めて神前にあると
島かへなばかけまくも賢き神の御心にもかなひ
開運出世幸福を得べきになり
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祈願絵馬
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5歳の菅公
昭和52年の御神忌1075年
大祭記念として奉納される。
台座に道真公の5歳と時庭前の
紅梅を読まれた和歌を刻す。
美しや
紅の色なる
梅の花
あこが顔にも
つけたくぞある |
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弁天社
寛文5年、大宰府天満宮(福岡県)心字池畔に
鎮座する志賀社を勧請したのを始めとしますが、
時代の推移とともに、七福神のひとつであり
無量の福徳を与える弁財天(水の神・音楽の神)
の信仰と習合し、一般には弁天様と親しまれて、
福徳福智を増し天災地変を消除する開運出世・
芸能成就の神として信仰されて来ました。
その間幾度か災害に罹りその都度復興されまし
たが、近年殊に社殿の破損も著しく、菅原道真公
御神忌1100年大祭に伴う記念事業に併せ、
地元宮元会役員一同を始めとする崇敬者各位の
御奉賛により、装いも新たに修復されました。
平成13年12月1日 遷座祭執行
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セミ
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太宰府天満宮に倣って作られた心字池
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心字池の琴柱燈籠越しに見える本殿
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カメ
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うわ〜カメだらけ!
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アオサギ
大きな声で鳴きだしたセミを一撃! 何度か銜えなおして食べてしまいました。
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次の獲物を待ちます。
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藤棚
藤の季節には藤まつりがあり
見事な藤棚が見られます。
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紅梅殿
御本社と時を同じくして 寛文2年(1662)に
太宰府天満宮の御神木「飛梅」の実生を勧請し、
社殿前に奉斎したのを起源とし、
昭和63年に現在地に再建される。
-立札より-
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筆塚
筆塚は、書家や書道に励む人等が、筆の労いに感謝
するとともに、一層の上達を願って廃筆を修めたものです。
当宮では、「宮居に遠き人のために吉書初め(書初め)に
可用筆を文政4年(1821)より毎年12月朔日から
晦日まで出す」と伝えられ、
今も「梅が枝筆」を授与しています。
特に、天神さまのご忌日 2月25日には
神苑の梅の木で調整した札を授与いたします。
筆塚際(書道上達祈願祭)
毎年7月25日執行し、
廃筆清書の焼納(お焚き上げ上げ)を行います
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亀戸天神 太鼓橋 最初の太鼓橋(男橋)
大鳥居をくぐると心字池があり、三つの橋が
九州太宰府天満宮の境内にならって作られています。
これは池と橋を人の一生に見立てた「三世一念の理」と言って、
最初の太鼓橋(男橋)は生きてきた過去を、
次の平橋(ひらはし)は現在を、
次の太鼓橋(女橋)は希望の未来を表し、
一つ一つ橋を渡るごとに心が清められ、神前へと進みます。
心字池と太鼓橋の形は、神様に近づく道真公の波乱の生涯が 重なっているように感じられます。
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平橋(ひらはし)は現在
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太鼓橋(女橋)は希望の未来を表し、 一つ一つ橋を渡るごとに心が清められ、神前へと進みます。
心字池と太鼓橋の形は、神様に近づく道真公の波乱の生涯が 重なっているように感じられます。
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花園社
御祭神は、菅原道真公の北の方で、道真公の父
君是善公の門人であり、道真公が御幼少の時の
師であった儒者の島田忠臣の御女であらせられ、
御名を宜來子(のぶきこ)申し相殿に御子達14方を
お祀りしています。
寛文年中(1661〜1672)亀戸天神社の創建と
時を同じくして、筑紫(福岡県)の地より勧請し、
以来花園神社、花園大明神とも号されて、安産・
子宝・育児の神・また立身出世の守護神として
信仰されています。
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文房至宝碑由来
中国より渡来した紙筆墨硯は文房四宝と称せられ
読み書き算盤の寺子屋時代から明治の学制発布により
高い文化を育てる文具として大きく貢献をしてきた。
今や文房具はOA機器にいたるまで、その範疇を広げ
四宝から至宝に至って戦後の日本国を世界の大国に
復興せしめた教育の原動力となった11月3日(文化の日)
を文具の日と定め平成2年11月12日天皇陛下御即位を
記念して全国業者相寄り東大宰府亀戸天神社の境内に
文房至宝の碑を建立する。
平成2年11月吉日 文具資料館
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御神牛
天神様・菅原道真公は、承和12年(845乙丑の年)の
6月25日にお生まれになり、延喜3年(903)2月25日に
大宰府の配所でお亡くなりになりました。
葬送の列が進む中、御遺体を乗せた車を曳く黒牛が
臥して動かなくなり、これは道真公の御心によることと
その場所を墓所と定められました。↓下に続く
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その後、そこに社殿を建立し、御霊をお祀りしたのが
太宰府天満宮の起源で、この年も「乙丑の年」でした。
また、道真公が京都から大宰府へ下向の途中、白牛に
よって危難から救われたという故事も伝えられています。
このように道真公と牛との御神縁は殊の外深く古来より
信仰されて来ました。
この神牛の座像は昭和36年、ご鎮座300年祭に
あたり御社殿の復興とともに奉納されたものです。
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神楽殿
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