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No.n233 寿福寺と梅、他
No.n233 Kamakura JufukuJi Temple
Tokyo-To /Beautiful Japan
Photo31pieces/GreenSeason
♪=なつかしき愛の歌
◆寿福寺、文学案内板、文学碑、文人墓
◆海野寿子歌碑、米川稔歌碑、星野立子句碑
◆境内非公開
◆梅の花
◆源実朝、北条政子
◆極楽寺、極楽洞、
◇寺院、国指定史跡、土木遺産
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総門
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インフォメーション
宗派=臨済宗建長寺派
山号寺号=亀谷山寿福金剛禅寺
建立=正治2年(1200)
開山=明菴栄西
住所=〒248-0011 神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-17-7
電話=0467-22-6607 |
* 交通アクセス
鎌倉駅西口から、徒歩約10分
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参道
寿福寺を訪問するのが目的でしたが、
非公開で奥の門が閉ざされていたので、 門の横の紅梅と、参道の白梅を切り撮りました。
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やぐら内の五輪塔
源実朝の墓
こちらは、パネルの写真を撮ったものです。
中に入れず、実際には見ることはできませんでした。
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閉ざされていた、中門
寿福寺
源頼朝が没した翌年、妻の北条政子が明菴栄西(みょうあんえいさい)を開山に招いて建立した鎌倉五山第三位の寺です。
鎌倉幕府三代将軍の源実朝も、再三参詣しました。
栄西は日本に初めて臨済宗を伝えた禅僧で、、『喫茶養生記』を著すなど、お茶を飲む習慣を日本に伝えたことでも知られています。
裏山の「やぐら」(中世期の横穴墳墓)には、源実朝、母・政子の墓と言われる五輪塔があります。
墓地には俳人・高浜虚子や作家・大佛次郎などが眠っています。 |
※門が閉ざされ、見学できませんでした。
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国指定史跡 寿福寺境内
亀谷山寿福金剛禅寺(きこくさんじゅふくこんごうぜんじ)【臨済宗建長寺派】は、正治2年(1200年)に頼朝夫人政子が、明菴栄西禅師を開山として建てたもので、鎌倉五山の第三位の寺です。 |
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この地は、もと源頼朝の父義朝の館があったといわれ、鎌倉入りした源頼朝はここに館を造ろうとしましたが、岡崎義実が義朝の菩提を弔うお堂を建てていたのでやめたといわれています。
墓地にあるやぐらには、源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔が二基あります。 |
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現在伽藍は外門、山門、仏殿、鐘楼、庫裡などですが、外門から山門に至る敷石は静寂感が漂い、また仏殿前に4株の柏槙があり、往時の面影を残しています。 |
平成8年3月30日 神奈川県教育委員会*
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参道でカワイイ梅の花が咲いています。
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鐘楼
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蕊、元気だなぁ!
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境内の散策は出来ませんでしたが、
可憐に咲く梅の花の元気な蕊を見て、
私も元気が湧きました。
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寿福寺
文学案内板
文学碑
歌碑:海野寿子、米川稔
句碑:星野立子
文人墓
海野寿子、大佛次郎、菊岡久利、高浜虚子、
高浜年尾、田辺松坡、星野立子、米川稔
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江ノ電 極楽寺駅、極楽洞
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江ノ電
極楽寺駅
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土木学会選奨土木遺産
2014
江ノ島電鉄(極楽洞)
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極楽洞(ごくらくどう)
極楽洞は、『江ノ電』の愛称で親しまれている江ノ島電鉄株式会社が所有する煉瓦造りの抗門で、右手の桜橋から見ることができます。アーチの頂部に2か所の要石を備えたデザインは、全国的にも珍しいもので、今なお建設当時の原形をとどめています。
江ノ電が極楽洞を走り抜ける景観は、古都鎌倉に近代の息吹を伝えた電気鉄道の歴史を偲ばせます。 |
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江ノ島電鉄
極楽洞
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江ノ島電鉄
極楽寺駅
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極楽寺
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極楽寺
宗派=真言律宗
山号寺号=霊鷲山感応院極楽律寺
建立=正元元年
開山=忍性菩薩
開基=北条重時
〒248-0023 神奈川県鎌倉市極楽寺3-6-7 |
*交通アクセス
江ノ電「極楽寺」駅下車 徒歩3分
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極楽寺
極楽寺駅近くでパーキングに車を止め、極楽寺を訪問しました。
この山門の内側の参道に「撮影禁止の」立札を見つけましたので、画像はありません。
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文学案内板 極楽寺周辺
*月影ケ谷(阿仏尼滞在の地)
開山は」良観房忍性(りょうかんぼうにんしょう)。奈良西大寺叡尊(えいそん)門下で戒律を学ぶ。弘長2年(1262)に北条業時(なりとき)に招かれて多宝寺住持となり、その後文永4年(1267)に極楽寺に開山として迎えられました。
極楽寺は正元元年(1259)に深沢に創建され、後に開基となる北条時重(しげとき)が現在地に移転したといわれています。元寇に際しては、幕府の令により異国降伏の祈祷を行い、また、鎌倉幕府滅亡後も勅令により国家安泰を祈る勅願所としての寺格を保ちました。かつての寺域は広大で、中心の7堂伽藍を囲むように多くの子院、そして療病院などの病院施設もあったことが当寺に伝わる絵図からわかります。
鎌倉時代中期の女流歌人、阿仏尼は夫である藤原為家の没後、先妻の子為氏と実子為相との間におこった遺産相続の訴訟のため、京都から鎌倉へ下った。その間のことを記したのが「十六夜日記」で、前半は東海道の紀行文、後半は鎌倉での日記となっている。鎌倉では月影ケ谷に滞在した。「16夜日記」には次のように記されている。
東にて住むところは、月影の谷とぞいふなる。浦近き山もとにて、風いと荒し。山寺の傍なれば、のどかにすごくて、浪の音松風絶えず。
(引用文献 新日本古典文学大系51 岩波書店 H2) |
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