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住所=〒112-0004 東京都文京区後楽1-6-6 電話=03-3811-3015 開園時間= 9:00~17:00(入園は16:30まで) 休園日=年末・年始(12/29~1/1) 入園料=一般:300円 . 小学生以下及び都内在住・在学の中学生は無料 . 65歳以上:150円 . 20名以上の団体/一般及び中学生:240円 . 20名以上65歳以上の団体:120円 . ※各種障がい者手帳持参の方ト月層の方:無料 . ※みどりの日、都民の日は無料 ※ 2021年 入園には整理券の予約が必要です。 |
都営地下鉄 大江戸線『飯田橋』駅より徒歩2分 JR 総武線 『飯田橋』駅より徒歩8分 東京メトロ 東西線/有楽町線/南北線 . 『飯田橋』駅より徒歩徒歩8分 東京メトロ 丸の内線/南北線 『後楽園』駅より徒歩8分 ※文京区コミュニティバス B-ぐる(千駄木・駒込ルート)を ご利用の場合『2番:小石川後楽園入口』が便利です。 |
◇江戸時代初期、寛永6年(1629)に水戸徳川家の祖である頼房が、その中屋敷、(のちの上屋敷)に造ったもので、二代藩主の光圀の代に完成した庭園です。様式は、池を中心にした回遊式築山泉水庭園です。光圀は造成にあたり、明の遺臣 朱舜水【しゅしゅんすい】の意見を用い、円月橋、西湖堤など中国の風物を取り入れ、園名『後楽園』も朱舜水の命名によるなど中国趣味豊かな庭園です。 昭和27年3月、文化財保護法により、特別史跡及び特別名勝に指定された日本でも屈指の名園です◇ |
常陸 水戸藩 の初代藩主。 水戸徳川家 の祖。 1603年 ( 慶長 8年)8月10日、 伏見城 にて 徳川家康 の十一男として生まれる 。 慶喜の先祖にあたる。 母は 江川英長 の養女( 正木頼忠 の娘)・ 蔭山殿 。 1606年(慶長11年)9月23日、3歳にして常陸下妻城10万石を、次いで1609年(慶長14年)12月12日、兄の頼将(頼宣)の駿河転封によって新たに常陸水戸城25万石を領したが、幼少のため駿府城の家康の許で育てられた。『南紀徳川史』では、頼房が徳川姓を許されたのは1636年(寛永13年)とし、それまでの33年間は「名字定まらず」としており、同母兄・頼宣の分家とみなされていたという説もある[2]。1610年(慶長15年)7月、家康の命により、実子市姫を亡くした英勝院の養子となる。1611年(慶長16年)に元服、頼宣と同様に清和源氏の通字の一つである「頼」の字を用いて頼房と名乗った。1614年(慶長19年)、大坂の陣では駿府城を守備した。 |
常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。 幼少年時代、寛永9年(1632年)に水戸城に入城した。翌寛永10年(1633年)11月に光圀は世子に決定し、翌月には江戸小石川邸に入り世子教育を受ける。世子内定の時期や経緯は諸書で若干異なっているが、頼房の付家老・中山信吉が水戸へ下向して行われており、第3代将軍・徳川家光や英勝院の意向もあったという。翌寛永11年(1634年)には英勝院に伴われて江戸城で家光に拝謁している。 少年の頃の光圀の振る舞いはいわゆる不良であり、兄(頼重)を差し置いての世子決定が光圀の気持ちに複雑なものを抱かせたといわれる。光圀16~17歳のとき、傅役の小野言員が「小野言員諫草(小野諫草)」を書いて自省を求めた。光圀18歳のとき、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、これにより勉学に打ち込むこととなる。 藩主時代、寛文5年(1665年)、明の遺臣・朱舜水を招く。朱舜水の学風は、実理を重んじる実学派であった。朱舜水を招いた主な目的は、学校建設にあったようであるが、おそらく費用の面から実現しなかった。しかし、その儒学と実学を結びつける学風は、水戸藩の学風の特徴となって残った。朱舜水は、17年後の天和2年(1682年)死去し、瑞竜山に葬られた。 延宝7年(1679年)頃、諱を光圀に改める(光圀52歳)。 |
朱舜水は、中国浙江(せっこう)省餘姚(よよう)の士大夫の家に生まれ、明国に仕え、祖国滅亡の危機を救わんと、海外に渡って奔走、長崎にも数度きたり、七度目の1659年(万治2)長崎に流寓(るぐう)した。翌1660年柳川(やながわ)藩の儒者安東省庵(あんどうせいあん)(守約(もりなり))と会い、彼の知遇を受ける。水戸藩主徳川光圀(とくがわみつくに)が史臣小宅生順(おやけせいじゅん)(1638―1674)を長崎に遣わして、舜水を招こうとしたのはその数年後。初め応じなかったが、門人省庵の勧めもあり、招きに応じて水戸藩の江戸藩邸に至ったのは1665年(寛文5)7月、66歳のときである。以後水戸にも二度きているが、住居は江戸駒込(こまごめ)の水戸藩中屋敷(東京大学農学部敷地)に与えられ、天和(てんな)2年4月17日83歳で没するまで、光圀の賓師(ひんし)として待遇された。『大日本史』の編纂(へんさん)で有名な安積澹泊(あさかたんぱく)(名は覚)はその高弟。墓は光圀の特命によって水戸家の瑞竜山(ずいりゅうざん)墓地(常陸(ひたち)太田市)に儒式をもって建てられた。舜水が水戸藩の学問に重要な役割を果たしたことが知られる。舜水の学問は朱子学と陽明学の中間、実学とでもいうべきものである。その遺稿は光圀の命によって編纂された『朱舜水文集』(28巻)などに収められている。 なお、余談ではありますが『最初に中華麺を食した日本人=水戸光圀』とする説にも舜水が深くかかわっており、彼がそのレシピを水戸藩に伝えたとも言われています。 |
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