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No.c003 漱石山房記念館と穴八幡宮
No.c003 Soseki memorial hall & Ana Hachiman-gu
Tokyo-To /Beautiful Japan
Photo29pieces/GreenSeason
♪=管弦楽組曲 第2 H moll
◆漱石公園・漱石山房記念館
◆木曜会、胸像、梅の花
◆流鏑馬(やぶさめ)、蟲封じ、出世
◆應神天皇(おうじんてんのう)、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)、
神功皇后(じんぐうこうごう)
◇記念館、公園、寺院、神社
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昨年秋(2017年9月)に開館した
漱石山房記念館を訪ねました。
↙ 写真撮影可能域は入り口のこちらまでのため
会館内の画像はございません。
インフォメーション
〒:162-0043
所在地:東京都新宿区早稲田南町7
開館時間= 10:00~18:00(入館は17:30まで)
休館日=月曜日、年末年始、その他臨時休館あり
観覧料(通常展)= 一般=300円、小・中学生=100円
アクセス
東京メトロ東西線「早稲田駅」徒歩約10分
東京メトロ東西線「神楽坂駅」徒歩約15分
東京メトロ有楽町線「江戸川橋駅」徒歩約20分
都営大江戸線「牛込柳町駅」徒歩約15分
都営バス(白61)「牛込保健センター前」下車 徒歩約2分
漱石公園
山房記念館の建つ漱石公園を散策しましょう。
漱石山房の記憶
夏目漱石は、明治40年9月、この地に引っ越してきました。
そして対象5年12月9日、『明暗』執筆中に49歳で亡くなるまで多くの作品を生み出したのです。漱石が晩年住んだこの家を「漱石山房」といいます。漱石は面会す阿が多かったので、木曜日の午後を面会の日としました。これが「木曜会」の始まりです。「木曜会」は漱石を囲む文学サロンとして、若い文学者たちの集う場となり、漱石没後も彼らの心のよりどころとなりました。
胸像
公園前で以前と変わらぬ胸像が出迎えてくれました。
◆2011に訪問した漱石公園はこちら◆
山房記念館が建つ前の様子、文京区の旧居跡や
明治村の移築復元した旧居もご覧いただけます。
満開の梅の花
資料館
以前、公園に在った資料館がそのまま残され、
職員の方も在駐されていました。
15分ほど漱石紹介ビデオを見せていただきました。
旧夏目邸建物基礎
平成27年(2015)4月、漱石山房記念館建設に伴う埋蔵文化財試掘調査の際に見つかったもので、房州石(凝灰岩)の建物基礎と水廻りと考えられるタタキ状の遺構が確認された。漱石山房は、漱石没後の大正9年(1920)鏡子夫人により立て替えられ、その際に漱石の書斎・客間と回廊は敷地の南東隅に曳家し、母屋とは渡り廊下で繋がれた。確認された遺構は、規模や戦災の際に堆積した焼土との関係から、建て替えられた夏目邸の母屋の遺構であると考えられる。
猫の墓
夏目家で飼った動物のうち、「我輩は猫である」のモデルとなった「福猫」は、明治41年(1908)9月13日に亡くなると、裏庭の桜の木の下にみかん箱に入れて埋葬され、この下に稲妻起こる宵あらん」という句を添えた二寸角の白木の墓標が建てられた。その後、文鳥も合葬された。犬のヘクトーの墓も近くに建てられ、「秋風の聞こえぬ土に埋めてやりぬ」という句を添えた。
猫の墓と呼ばれるこの石塔は、福猫の13回忌にあたる大正9年(1920)夏目家で飼われた生き物たちを供養するため、漱石の長女・筆子の夫・松岡譲が造らせた九重塔で、台石には津田青楓の描いた猫・犬・鳥の三尊像が刻まれていた。しかし、昭和20年(1945)5月25日に空襲で漱石山房が焼失した際に損壊し、現在の石塔はその残欠を利用して昭和28年(1953)12月9日に再興されたものである。現存する漱石山房の唯一の遺構である。
ビデオの中で、近くの「夏目坂」を紹介していたので
帰りに寄ってみましょう。
漱石生誕の地 石碑
夏目坂
夏目漱石の随筆『硝子戸の中』(大正4年)によると、漱石の父でこのあたりの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を付けて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ、地図にも乗るようになったという。
夏目坂
穴八幡宮
インフォメーション
東京都新宿区西早稲田2-1-11
主祭神:応神天皇・仲哀天皇・神功皇后
創建:1062年
主な神事:流鏑馬(体育の日)
旧称:高田八幡宮
アクセス
東京メトロ東西線「早稲田」駅下車 徒歩3分
都営バス 学02・早77・早81 各系統「馬場下町停留所」下車
流鏑馬(やぶさめ)像
高田馬場流鏑馬 - 新宿区指定無形民俗文化財
享保13年(1728)徳川将軍吉宗が世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納しました。流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除祈願として奉納されました。
明治維新以降中断し、昭和9年に皇太子(現天皇)誕生祝のため再興され、数回行われましたが、戦争のため中断されました。
昭和39年流鏑馬の古式を保存するため、水稲荷神社境内で復活し、昭和54年からは都立戸山公園に会場を移し毎年体育の日に高田馬場流鏑馬保存会により公開されています。
古式豊かで勇壮な高田馬場の流鏑馬は、小笠原流によって現在に伝えられており、貴重な伝統行事です。
東京都新宿区教育委員会
穴八幡宮に伝わる「流鏑馬絵巻」には 元文3年(1738)に奉納された竹千代(後の十代将軍徳川家治)誕生の流鏑馬が描かれています
-パネルより-
随神門
漱石の妻も、穴八幡宮へはよく訪れたそうです。
歴史
(Wikipediaより)
◆社伝によれば、1062年(康平5年)源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったという。
1636年(寛永13年)ここに的場が造られ、この八幡宮を守護神とした。
1641年(寛永18年)宮守の庵を造るため、社僧良晶が南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れた。掘った人は「芽出度い」と大喜びし、以来、「穴八幡宮」と称するようになった。3代将軍徳川家光は、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護とした。
手水舎
◆歴代将軍がたびたび参拝し、8代将軍徳川吉宗は1728年
(享保13年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納した。流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納され、穴八幡宮に伝わる「流鏑馬絵巻」には1738年(元文3年)に奉納された竹千代(後の10代将軍徳川家治)誕生祝の流鏑馬が描かれている。
江戸の庶民からも信仰を集め、特に蟲封じの祈祷は有名だった。1879年(明治12年)には皇太子(後の大正天皇)の御蟲封祈祷も行っている。
1945年(昭和20年)の東京大空襲で、建物の多くを焼失。
1961年(昭和36年)御鎮座900年事業として本殿再建工事を開始。
1989年(平成元年)引き続き幣殿、拝殿工事を行う。
1998年(平成10年)、隨神門を室町時代の様式で再建す、なお境内全域を古書を基に未だ再建途中。
本拝殿
御神木
●冬至の「一陽来復」のお守りでも知られる。お守りを受け取れる期間は毎年冬至の日から翌年節分の日までであり、冬至の日は特別に午前5時から受け取る事ができる。
なお、現在同神社は旧別当の放生寺と日本キリスト教団早稲田教会と隣接しており、神道、仏教、キリスト教が街の一角で共存している状態が続いている。五木寛之の著作には、入学したばかりの五木が、穴八幡の床下で寝ていて追い出された、という記述がある。
布袋様
この建物が新増築されていました。
御神馬
髄神門