------------------------------------- No.c320 ポールラッシュ記念館と清泉寮他
No.c320 Paul Rusch Memorial Museum & Seisen Dormitory, etc.
Yamanashi-Ken /Beautiful Japan
Photo 26 pieces/GreenSeason
◆ポール・ラッシュ博士
◆澤田美喜
◆清里聖ヨハネ保育園
◆清里聖アンデレ教会
◆ジャージーハット
◆清泉寮、アンデレクロス
◆公益財団法人キープ協会
◇記念館、協会、レストラン、宿泊施設
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ラッシュのもとには、日系二世の学生たちも集まり、彼らの多くは、外見は日本人でも言語と内面は米国人のため、日本での学生生活に様々な問題を抱えていました。
ラッシュは、こうした二世学生たちのために、彼らが慣れ親しんでいるアメリカンフットボールを取り入れました。明治大学の松本瀧蔵らと共に、1934(昭和9)年11月29日、二世学生を中心とする立教大学・明治大学・早稲田大学の学生チーム対、Yokohama
Country Athletic club の外国人チームによる、日本初の公開試合を開催しました。
そして同年には、東京学生連盟を発足させ、翌35(昭和10)年には慶応義塾大学と法政大学、41(昭和16)年には日本大学が加入するなど、日本に置いたアメリカンフットボールを普及させました。
戦後も、アメリカンフットボールの復興・再建に尽くしたラッシュは、1964(昭和39)年9月、その功績が称えられ、「日本のアメリカンフットボールの父」の称号を得ました。
-立教学院展示会発行『我が人生、日本の青年に捧ぐより引用-
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デッキを渡りポール・ラッシュの自宅へ
併設された、ポール・ラッシュ邸は撮影可能です。
飾り棚 Art is Alive
執務室
執務室
食堂
日本に希望を灯したふたり
~澤田美喜とポール・ラッシュ 響きあう心~
『我、山に向かいて目をあげん、我が助はいずこより来るか』
詩篇 121篇1節
米国ケンタッキー州出身。関東大震災で崩壊した東京と横浜のYMCA再建のため1925(対象14)年に国際YMCAから派遣され28歳で初来日しました。東京・聖路加国際病院建設の募金活動、日本聖徒アンデレ同朋会の設立など多くの社会事業、学生スポーツ等に尽力し、青少年訓練清泉寮キャンプ場として1938(昭和13)年に山梨県の清里高原に「清泉寮」を建設。
日米開戦により強制送還された後は米国陸軍日本語学校で日系2世兵の指導に当たり、終戦後はGHQ将校として戦禍で疲弊したの本社会の再建活動に取り組みました。
82歳で亡くなるまで「青年への希望」を掲げ、生涯を日本の社会事業に捧げたのです。“ Do your best and it must be
first class ” は、無償の奉仕で社会事業に取り組んだ際の心構えであり、また日本の若者に残した言葉として有名です。