
|
   
-------------------------------------
No.c362 かっぱ橋散策
No.c362 Walking around Kappabashi
Tokyo-To /Beautiful Japan
Photo 27 pieces/GreenSeason
◆かっぱ橋道具街、巨大オブジェ
◆臨済宗妙心寺 霊梅寺
◆臨済宗大雄山 海禅寺
◆かっぱ橋本通り「下町七夕まつり」
◆かっぱ橋道具街通り
◆梅田雲浜のお墓、安政の大獄
◇寺、散策
出かけませんか?CandyBox
c362-Copyright(c) Candybox All Rights Reserved.
--------------------------------------
ページラスト |
|

|
霊梅寺 インフォメーション
   
所在地=〒111-0036 東京都台東区松が谷3-3-5
TEL= 03-3841-5985
臨済宗妙心寺派寺院 |
交通アクセス
| つくばエクスプレス『浅草』駅(A2)出口より徒歩6分 |
*
|

|
境内散策
   
|

|
   
|

|
   
|

|
   
|

|
   
|

|
   
|
 |
霊梅寺の空
   
|

大雄山 海禅寺
|

|
インフォメーション
   
所在地=東京都台東区松が谷 3-3-3
TEL= 03-3841-2742
臨済宗大雄山海禅寺
1624年草創。
|
交通アクセス
| つくばエクスプレス『浅草』駅(A2)出口より徒歩6分 |
*
|

|
境内散策
   
蜂須賀家の庇護を受けて同家の菩提寺に準じた扱いを受ける。
下方に写真掲載した梅田雲浜のお墓は、街地図で見つけ、帰り道で再び寄りました。 |
|

|
休憩所
   
|

|
竹林の中の石燈籠
   
|

|
こじんまりとして、落ち着いた境内です。
   
|

|
   
|

|
オニユリとアジサイ
   
|

|
ハイビスカス
   
|
 |
日日草
   
ピンク色の日日草の花言葉は
「優しい追憶」「優しい記憶」です。
|

かっぱ橋道具街通り
|

カブトムシの巨大オブジェ
|
かっぱ橋の由来
   
合羽橋の由来には二つの説がある。
その一つは、今から160年ほど前の文化年間の頃、この一帯は、水はけの悪い土地でたびたび出水を起していた。そこで、合羽川太郎(本名:合羽屋喜八)は、私財を投じて排水工事に着手したが、工事は殊の外難航した。昔、川太郎に助けられたことのある隅田川の河童たちは、これを見ていたく同情し工事を手伝ったおかげで、掘り割り(当時は新堀川と呼ばれた)は見事に完成した。この故事にちなんで「合羽橋」としたというものである。
もう一つの説は、今の金竜小学校のあたりにあった伊予新谷の城主、加藤家下屋敷に住む侍や足軽が、内職に作った雨合羽を近くの橋で乾かしたことで「合羽橋」と呼ばれるようになったというものである。 |
|

|
かっぱ河太郎像の碑
   
古来合羽橋は商売とは深い縁で結ばれていた。
今から約200年前の文化年間、商人として財を成した合羽屋喜八は、このあたりの水はけが悪く、僅かな雨で度重なる洪水に人々が難儀をしていることを見かね、私財を投げ出し、治水のための掘割工事を始めた。ところが工事は困難を極めなかなか捗らない。その様を見ていた隅田川の河童達が喜八の侠気に感じ、夜な夜な現れては人知れず工事を進め、さしもの難工事もついに完成した。
そして、その河童を見た人は、なぜかそれから運が開け、商売が繁昌したという。
この故事に鑑み、合羽橋道具街の誕生90年を迎えるにあたり、ご来街のお客様ともども幾久しい商売繁盛を祈念し、台東区の協力を戴きこの地に「かっぱ河太郎像」を建立する。 |
平成15年10月吉日 東京合羽橋商店街振興組合
*
|

|
マンホールの蓋
    さらざんまい
TAITO-CITY
|

|
合羽橋交差点付近
   
2024年7月7日 かっぱ橋本通り
「下町七夕まつり」で賑わっていました。
|

|
かっぱ橋交差点
   
|

|
ビルの屋上の犬の巨大オブジェ
   
|
 |
かっぱ橋本通りで見つけた
実物大 紙製オートバイ
    99% Made from paper
|

海禅寺 |


右側の墓石に雲浜の戒名が刻まれていました。 |
町内地図で、歴史上の人物のお墓があることを知り
帰り道、海禅寺を再訪しました。
お二人の名前に続き
「大正12年9月大震災厄二遭ヒ破損セシヲ
以テ原形ニ随ヒ之ヲ造ル」と彫られています。
   
梅田 雲浜(うんぴん)の墓
雲浜のお墓は国内に、3カ所あるらしい。
| 1815-1859 江戸末期の儒学者。小浜藩士・矢部義比の次男として誕生。雲浜の号は、若狭国小浜海岸からの由来。安政の大獄で最初の捕縛者となり、1859年10月9日に幽閉中に病死45才 |
藤井 尚弼(なおすけ)の墓
| 1825-1859 幕末の尊攘運動家。西園寺家の諸大夫の家に生まれ弘化3年治部大丞となる。安政の大獄に際し京都町奉行に捕らえられ、安政6年9月1日江戸の小倉藩邸で病死35才。 |
   
大老 井伊直弼による安政の大獄
1858年(安政5)から1859年(安政6)にかけて江戸幕府が行った弾圧。
幕府の大老・井伊直弼や老中・間部詮勝らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また将軍継嗣を徳川家茂に決定した。安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件である。弾圧されたのは尊王攘夷を主張する者や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)らで、連座したものは100人以上にのぼった。形式上は13代将軍・徳川家定が直接命令を発して全ての処罰を行ったことになっているが、実際には井伊直弼がすべての命令を発しており、家定の命令として行われたのは家定死去の直前である7月5日、尾張藩主、徳川慶勝や福井藩主・松平慶永、水戸藩の徳川斉昭・慶篤父子と一橋慶喜に対する隠居謹慎命令(慶篤のみは登城停止と謹慎)だけであり、大獄の始まる初期のわずかな期間に限られている。 |
*************************
お気づきのこと等がございましたら
ご一報ください。→: こちら!
************************* |