794  トイスラー記念館  
東京都(Tokyo-to)

10/04/04 Sun. 


お気に召さないときは止めてください。

♪「Cleopha」
オルゴールバージョンです♪

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 何年ぶりか、再訪のトイスラー記念館、ご一緒にいかがですか?
聖路加国際病院トイスラー記念館   所在地 中央区明石町10番
 昭和8年、トイスラー記念館は隅田川畔の明石町19番地に聖路加国際病院の宣教師館として建設されました。
 設計者は米国人建築家のJ.V.W.バーガミニィで、施工は清水組(現在の清水建設株式会社)が行いました。建物の躯体は、昭和初期の住宅建築には珍しい鉄筋コンクリート造一部木造の二階建てで、ヨーロッパの山荘を思わせる重厚な風格のある建物でした。
 平成元年に解体工事が行われ、平成10年2月に現在地へと移築復元されました。復元にあたり、創建当時の施工技術や構造上の特徴を精密に記録し、再利用可能な部材をできる限り用いています。
 外観は、外部に柱や梁を表現したハーフティンバー風の意匠です。室内はチューダー・ゴシック風のデザインで、玄関ホールやリビングなどに重厚な木の内装が見られます。
 この建物は、聖路加国際病院の歴史を物語るとともに、築地居留地時代から引き継がれてきた明石町の歴史の一端を伝える貴重な文化財です。
平成18年3月    中央区教育く委員会  -パネルより-
トイスラー記念館の後ろの建物が、聖路加国際病院です。
記念館は現在も病院関係の施設として利用されており、
建物内を見学することはできません。

建物の周りの小さい花壇に、
たくさんの春を知らせるお花が咲いていました。
ルドルフ・トイスラー博士

 米国聖公会の宣教医師である トイスラー博士は25歳で来日、
1902年(明治35年)診療所を開設し病院に発展させ
現在の聖路加国際病院となりました。

聖路加病院敷地内の石碑

浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の江戸本邸跡や 
芥川龍之介生誕の地、
立教大学発祥の地など、
いくつかの石碑を見つけることが出来ます。
播州赤穂藩主の「浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)」の江戸本邸跡。日頃からの恥辱に耐えかねて、ついに吉良上野介(きらこうずけのすけ)に松の廊下で切りかかり、結局切腹、御家断絶を招きました。その翌年あだ討ちとして、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を中心とした赤穂浪士47人が復讐を決起するという物語は今日忠臣蔵で有名です。その浅野家の屋敷跡が都指定史跡となって記念碑が残っています。

「羅生門」「鼻」「蜘蛛の糸」などで有名な明治の文豪、芥川龍之介(1892年〜1927年)は、現在の明石町(京橋区入船町8-1)の牧場経営者、新原敏三の長男として生まれました。家庭の事情で現在の両国の母の長兄芥川家に引き取られ、後の12歳の時に、芥川家の養子となりました。東京帝国大学学生中から作品を書き、夏目漱石の門に入り、「地獄変」、「羅生門」、「河童」、「或阿呆の一生」など、多くの名作を遺しましたが、昭和2年7月24日に35歳で自害しています。 HPより

この角度から見えるトイスラー記念館の
うしろの建物は 聖路加看護大学です。
窓に 素敵なレースのカーテンと
ピンクのお花が見えました。


聖路加看護大学と小児総合医療センター

以前訪問したときにはなかった 小児総合医療センターが、
トイスラー記念館の向かいの聖路加看護大学の
建物の中に 設置されていました。

花壇も、飛び石も、かわいらしくて お子さんが喜びそうです。

聖路加国際病院小児総合医療センターHP
理事長挨拶より抜粋
  聖路加国際病院は、キリスト教精神の下に全人的ケアを行う施設であるとともに、卒後医師や看護師その他の医療職の研修のモデル施設でもあります。
  平成4年(1992)に建設された全室個室の総合病院は、救命救急センター、予防医療センター、並びに特定公益増進法人聖ルカ・ライフ・サイエンス研究所の臨床研究研修開発センターと協力して、臨床医学、看護の研究・教育を行い、日本のメイヨー・クリニックを目指して発展しつつあります。
 
聖路加看護大学

写真を撮っていると、
賛美歌を奏でるオルガンの音が
聴こえてきました。

大学の周りをひとまわりして
近くに建つ「聖路加タワー」に行き
隅田川べりを散歩して
タワーに上りました。



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