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胡麻の郷(胡麻資料館)HP
訪問順とアップの順が前後しますが、伊吹山の次に訪問しました。
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豊かな自然に恵まれた岐阜県・関ヶ原町にある『胡麻の郷』は、ごまの全てが分かる健康テーマ館としてごまにまつわる様々な展示をしています。 ごまの起源や歴史、ごまの成分、各国の食べ方などごまの魅力を様々な角度から紹介していました。 |
胡麻栽培の発祥地
ゴマ栽培の発祥地は、熱帯アフリカの野生ゴマが多く茂るスーダンのナイル川流域といわれています。ここに住み着いた原住民が、知恵を絞って育て上げたのが世界最初のサバンナ農耕文化です。当時栽培され始めた作物が、ゴマを始め、オクラ、アワ、キビ、モロコシ、(ソルガム)などの雑穀類、マメ類、メロン、スイカなどのウリ類で、健康な食生活を支えるのに十分なエネルギーと栄養バランスのとれた食物でした。ところでゴマの発祥地アフリカは、人類誕生の地でもあります。アフリカ大陸東部を走るアフリカ大地溝帯(グレート・リフト・バレーが、激しい地殻変動に襲われ、環境が森から草原へと一変することによって、それまで木の上で安全に暮らしていた猿たちはサバンナでのサバイバル生活を強いられます。こうした厳しい環境に適応していく過程で、約500万年以上前に彼らは直立二足歩行の猿人に生まれ変わりました。その後、原人を経て約60万年前には、ヒト(ホモ・サピエンス)、つまり現代人へと進化しました。 |
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古代エジプトとゴマ
ゴマ油がいかに防腐作用に優れているかを証明する面白いエピソードをご紹介しましょう。古代エジプトでは、ミイラの仕上げにゴマ油を塗っていたと言われています。ゴマの抗酸化作用で、活きのいい?状態に保つことができたというわけです。紀元前1300年頃に、強大な権力を誇り、岩窟神殿として有名なアプシンベル宮殿を造らせたラムセス2世のミイラにも、ゴマ油が塗られていたそうです。また、ゴマは化粧用としても重宝がられ、当時流行した目の周りにエメラルドの粉末を塗る化粧の下地にも使われました。古代エジプトの初代女王ハトショプストも、最後の女王にして絶世の美女クレオパトラも、ゴマを愛用していたとか。ゴマの抗酸化作用でサビない人に。それがクレオパトラの、美貌の秘訣だったのかもしれません。
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岐阜県不破郡関ヶ原町玉1565-10
営業時間:午前10:00〜午後5:00
休館日:12月25日〜2月末日
入館料:無料
TEL:0584-43-0073
中近東とゴマ
ゴマは、チグリス川とユーフラテス川に挟まれたメソポタミアの地にも伝わりました。「世界4大文明」のひとつであるメソポタミア文明のウル第三王朝宮殿の遺跡から発見された粘土板には、ごまはえいようが高く、長寿食であることが楔形文字によって記されています。また、紀元前2000年頃のバビロン王朝の遺跡からも、ゴマが大量に出土しています。
このようにゴマは、原始的なゴマで、さやが熟して乾燥すると、ピシッと音を立てて、元気良く開いて種子を飛び散らしていました。アラビアの人たちはこのはじけて開く様子がよほど印象的だったのでしょう。何かを開かせようとするときに「開けゴマ!」と呪文を唱えたようです。あの「アラビアンナイト」の“アリババと40人の盗賊”のアリババも、この一声で財宝を手に入れました。 |
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インドとゴマ
ゴマは、インドへは陸路と海路の2つの経路で伝わりました。その歴史は古く、紀元前3000年ころ栄えたというインダス文明の古代都市モヘンジョ・ダロとハラッパの遺跡から、1959年の調査によってゴマが見つかっています。特にハラッパ遺跡からは、炭化したゴマが多数発掘されました。この遺跡は、2階建ての焼煉瓦家屋、水洗、排水設備、そして街灯までがともされていたほど進んだ都市だったようで、この街灯に使われたのが、ゴマ油だと推測されています。他に料理用はもちろん、灯油や医薬用にも使用されていました。その後インド全土にゴマは普及していきますがその理由の一つとして仏教との関連が挙げられます。仏教では、殺生が禁じられていて、肉を食べることが許されなかったため、その栄養を補うために植物性油脂を多く含むゴマが栽培されるようになったわけです。インドのもう一つの宗教、ヒンズー教徒も関係が深く、食用をはじめ、ゴマ油は積極的に利用されてきました。 |
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東南アジア、中央アジアとゴマ
東南アジアや中央アジアへは、ゴマは仏教とともに広まりました。これらの地域では、多くの仏教文化が栄えましたが、その一つであるバガン王朝(1044〜1287)は、大小数千の仏塔(バゴダ)や寺院を建設し、世界屈指の大仏教国家を造りました。この王朝の王たちは古くから耕作していたゴマをビルマ第一の主要油脂作物にするため、これを積極的に改良栽培することを奨励。その結果、ビルマの母なる大河、イラワジ川流域に、広大なゴマ栽培の黄金地帯が誕生しました。現在は「セサミオイル・フィールド」と呼ばれています。ビルマのゴマの大半は自国消費で、オイルセラーと呼ばれる油売りが有名です。油桶を天びん棒でかついで売り歩く姿は、昔ながらのもので、のどかな風情が漂います。 |
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ゴマ栽培歴三千年の中国
浙江省太湖南岸の呉銭山漾遺跡から、炭化したゴマが出土しました。これは紀元前3000年頃に、浙江省を中心として栄えた良渚文化の時代のもので、米食文化の初期からすでにゴマが栽培されていたことを物語っています。中国では「ゴマ栽培歴三千年』という言葉があることからも、古くから栽培されていたことがうかがえます。この長い年月の間に、黒ゴマがから白ゴマ栽培へと変化していったということです。 |
「ごまかす」の語源
「ごまかす」には二つの語源があります。そのひとつは、精製技術が発達していなかった頃、粗悪なナタネ油にゴマ油を少し混ぜるだけで風味が増し高値で売れたことから、粗悪品を上等に見せることを「胡麻化す」というようになったというもの。もうひとつは、江戸時代に流行した小麦粉にゴマを混ぜて焼いた中が空洞のお菓子「胡麻胴乱」からきたもの。外から見た目はいいが、内容が伴わないことをゴマ菓子=胡麻化しというようになりました。どちらにしてもゴマには不本意な由来です。 |
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日本への伝来
縄文時代晩期、紀元前1200年ころのものといわれる埼玉県にある真福寺遺跡から、ゴマ、そば、ウリなどが出土したのが、わが国では最も古い記録とされています。日本へはこの縄文時代晩期から弥生式文化にかけて、中国南部から海路によって、また中国から朝鮮経由で伝わったともいわれています。これは、お米の伝来とほぼ同じ時期。日本人の食生活に大きな影響を与えた2つの食品が、こんなににも古い時代に一緒に入って来たということになります。しかし一般的には、ゴマは仏教伝来とともに伝わったと考えられていました。というのも仏教の殺生禁止によって植物油やたんぱく質に富んだゴマが食べられるようになり、精進料理の普及とともに広まっていったからです。 |
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「ごまをする」の語源
ゴマをすると油分が出てきて、すり鉢のあちこちにベタベタとへばりつきます。この状態が、八方美人的に人にへつらうような感じがしたことから、「ゴマをする」の語源になりました。他にも、お寺の小坊主が和尚の機嫌をとったことが語源になったという説もあります。これは昔、小坊主がゴマをよくすらないで食卓に出すと和尚の機嫌が悪くなり、良くすると機嫌が良くなったことから、和尚の機嫌の悪い時にゴマをすりましょうかといっておべっかを使ったことに由来します。いかにもありそうな話で、様子が目に浮かぶようです。 |
セサミストリート
1950年代にアメリカ南部で創業された会社は、アメリカにゴマを広めたと言われるパイオニア的存在。ゴマ栽培のための土地を開拓し、そのメインストリートをセサミストリートと名付けました。創業者は子どもたちの教育にも熱心で、町に勉強小屋をつくり、人種や身分の区別なく授業を行ったということです。この姿勢に関心をもったテレビ会社が、独特なぬいぐるみ人形を使って子ども番組をつくったところ、全米で大ヒット。日本ではNHK教育テレビで放送されたあの「セサミストリート」は、実はアメリカに実在する町だったのです。 |
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ゴマの花
白いゴマには白い花が咲き
黒いゴマ、茶色いゴマには
ピンク色の花が咲くそうです。
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休憩スペースには
飲み物サービスの機械があり
セルフサービスで冷たい飲み物を頂き
ひと休みをして次の訪問先に向かいました。 |
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大垣城
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パーキングに車を止め
にぎやかな大垣公園の中を通り
大垣城に向かいます。
お祭りがあったようで、
大勢の人が公園を訪れていました。
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大垣市指定史跡 大垣城跡
大垣城は、牛屋川を天然の外濠にとりいれた要害堅固な平城で、天文4年(1535)宮川安定によって創建されたと伝えられている。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦では、西群の本拠となり壮絶な攻防戦が繰り広げられたが、戸田家が入城してからは、歴代藩主とともに天下泰平の世を謳歌した。
先の戦災で惜しくも天守閣を焼失したが、現在城跡一帯は市民の憩いの場として親しまれている。 |
大垣教育委員会
-パネルより- |
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大垣城、空襲による天守の消失前の写真
-パネルの写真- |
1959年(昭和34年)に鉄筋コンクリートで
再建され、現在改修工事を行っている
大垣城天守の写真
天守閣は資料館で
関ヶ原の合戦資料もあるそうです。
また、石灰岩による「わらい積み」という
全国的にも珍しい石垣だそうです。
-パネルの写真- |
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乾隅櫓の鯱瓦
天守北西の乾隅櫓の改修工事では、屋根瓦の
葺き替えに伴い鯱瓦も新たに製作しました。
今回の工事では、再建乾櫓の史実性・歴史性
を高めるために、乾隅櫓の物と伝えられる
鯱瓦を参考に検討し、デザインを決定しました。
-パネルの写真- |
伊吹山に登り、天命反転地訪問後のこの時間ですから、
城内見学はできないと覚悟して、
外観だけでも撮ろうと思い、寄りましたが、
改装工事中で残念ながら、お城の姿は見ることができませんでした。 |
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オンマウスで
玄関屋根てっぺんの
鬼がわらを
ご覧ください。 |
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天守は、四重四階建て総塗りごめ様式で、大変優美な城として名高く、その姿から、麋城(びじょう)、巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれている。関ヶ原合戦の際には、西軍を率いた石田三成の本拠地となるなど、歴史上からも貴重な城であった。その後、尼ヶ崎より戸田氏鉄(とだうじかね)が入城し、戸田十万石の居城となった。
戦前まで国宝であったが、昭和20年7月の空襲により焼失した。戦前に実測図を作成した4城(名古屋城、大垣城、広島城、岡山城)の一つであり、また戦前に写真集を作成した3城(名古屋城、大垣城、姫路城)の一つでもあることから、昭和34年4月に昔の容姿で再建された。(戦前と比べると最上部の窓の形状、屋根の微妙なそり、一部の飾り金具以外は、忠実に再現されてる) -HPより- |
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乾櫓は1967年(昭和42年)復元
白壁と石垣が美しい景観です。 |
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公園の戸田氏鉄公騎馬像→
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大垣ICから名神高速に入りました。
PM5:40です。
東名高速に接続して東京に向かいます。
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高速を走る車窓から見えた 小牧城 |
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今朝8時前に関ヶ原合戦場を訪問し→伊吹山→胡麻の郷→天命反転地→大垣城とまわりました。
自宅に着いたのはPM10:30 1泊2日の旅の走行距離は925kmでした。
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今日もお出で頂きありがとうございました。
よろしかったら 次回もお付き合いください!
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