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横山大観記念館 HP
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ここは、日本画家、横山大観(1868〜1958)の住居でした。 大観がこの地に住みはじめたのは、明治42年(1909)です。最初は 狭かった敷地も、大観が画家として名をなすにしたがい拡張され、大正 8年に現在の広さとなりました。昭和20年(1945)3月10日の空襲で 住居が焼失したため、大観はしばらく熱海伊豆山の別荘に移り住みま す。昭和29年(1954)8月、焼失した住居の土台をそのまま利用して、 新居が再建され、大観は再び池之端で生活をはじめます。昭和33年 (1958)2月に90歳で没するまで、ここで数多くの作品を制作しました。 |
静子夫人没後の昭和51年(1976)9月、遺族から大観の作品や習作、 遺品、画稿、スケッチ帳などの寄贈をうけて、財団法人横山大観記念館 が設立され、同年11月に一般公開されました。 心の安らぎを感じられる美術館をモットーとし、できるかぎり 建物の雰囲気をいかし、軸装の作品はそのまま床の間にかけて展示 しています。また、靴を脱いで入る日本建築の良さ、大観がこだわった 細部のデザインも存分に楽しむことができます。 - HP参考- 館内は撮影禁止のため画像はありません。 館内の様子は、公式サイトをご覧ください。 |
上の2枚の画像は、中庭の新緑 右の画像以下は、玄関前のお庭です。 このお庭を、大観さんは四季折々 楽しまれていたことでしょう。 |
横山大観
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1868年、旧水戸藩藩士・酒井捨彦の長男として横山大観(本名・秀麿)は生まれた。 父は測量や地図の製作をする仕事をしていたため、その影響を受けて横山大観は将来の自分の進路を建築設計という方向で考えていた。 明治18年、東京府中学校(府中一中、現在は都立日比谷高)を卒業。 進学に当たり、受験では大学の予備門で四級と英語専修科という2つの試験を受験したが、当時は学科を2つも受験することはほとんどなく、また横山大観の担当であった事務員が非常に頭の固い人間だったため、『2つも受験するとは何事か』と複数受験を理由に両方とも失格にしてしまった。 |
そんなことで不合格にされるくらいならと大観は別の学校を探し、子供のころから英語は学んでいたため、東京英語学校に進学した。 この在学中に絵画に興味を抱き、洋画家の渡辺文三郎という人物から鉛筆画を習うことになり、その期間は6〜7ヶ月くらいであった。 1888年には、母方の親戚である横山家の養子となった。 卒業を控え次の進路を考えているときに、浜尾新や岡倉天心らが東京美術学校を設立するという話を知り、そこに進学を希望する。 建築の道に進むものだと思っていた父親からは猛反対されてしまうが、大観は東京美術学校を受験することになり、その後の人生を大きく変えた。 |
横山大観顕彰碑
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