845-1 忍 城 (おしじょう)
埼玉県(Satitama-Ken)
11/04/10 Sun.


お気に召さないときは止めてください。

♪「Cleopha」S.Joplin
オルゴールバージョンです♪

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 忍城HP 



No.845-1 忍城
No.845-1 Oshijo castle

Saitama-Ken / Beautiful Japan
Photo:24pieces/GreenSeason
◆忍の浮き城、亀城
◆日本三大水攻めの一つ
◆忍城おもてなし甲冑隊
◆コスプレイベント
出かけませんか?CandyBox
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藩校進修館の門
忍城は、埼玉県行田市にあったお城で、
江戸時代には忍藩の藩庁が置かれました。
別名は忍の浮き城、亀城。

埼玉県の旧跡に指定されており、関東七名城の一つに挙げられます。

忍城水攻めは日本三大水攻めの一つに数えられています。
忍城の築城
戦国時代,行田周辺の武蔵武士の中から、現在の熊谷市上之を本拠地とする成田氏が台頭し、忍城(おしじょう)を築城しました。
文明11年(1479)の古河公方足利成氏(あしかがしげうじ)の書状に「忍城」、「成田」とでてくることから、このころには築城されていたと考えられます。
当時の城主は成田顕泰(なりたあきやす)といい、以後親泰、長泰、氏長と四代にわたり、天正18年(1590)まで、約百年のあいだ成田氏が忍城主でした。  ★

永正6年(1509)、忍城を訪れた連歌師の宗長は、城の四方は沼にかこまれていて、霜で枯れた葦が幾重にもかさなり、水鳥が多く見え、まことに水郷である、と日記に書いています。
忍城の築かれた場所は、北は利根川、南は荒川にはさまれた扇状地で、小さな川が乱流するとともに、伏流水が寄り集まって広大な沼地となっていました。そこに残る島や自然堤防をたくみに利用して、忍城が築かれました。

インフォメーション行田市郷土博物館 HP

忍城は明治維新の際に壊されましたが、忍城本丸の跡地に往時の面影を再現した忍城址(おしじょうし)が整備されています。忍城址内には郷土博物館が併設されています。
◆入館料:   個人 団体
大人 300円 160円
高・大生 100円 80円
小・中生 50円 40円

◆開館時間:9:00〜16:30(入館16:00まで)
◆休館日:月曜日(祝日のときは翌日)
  毎月第4金曜日、年末年始
◆所在地:埼玉県行田市本丸17-23
◆お問合せ:048-554-5911
ご三階櫓
鐘楼と鐘

現在の御三階櫓は昭和63年(1988)に再建されたものですが、江戸時代の忍城ゆかりの遺品として、時鐘(じしょう)があります。この鐘は、享保2年(1717)伊勢桑名藩主松平忠雅によって鋳造され、文政6年(1823)に松平氏が桑名から忍へ移封されるのにともなって、忍城へ移されたものです。もともとはお城の二ノ丸にあって、時の鐘として時刻を知らせていました。

現在忍城址の鐘楼につるされた鐘は、平成4年(1992)に再造されたもので、本物は郷土博物館に展示されています。毎年大晦日の夜には、この鐘の音が除夜の鐘として、市内に響きわたります。
YouTube忍城

 ◆ ◆ ◆
          
忍城の実質的な天守閣として機能した建物は、明治6年に解体されましたが、昭和63年に再建されました。櫓は展望室や行田の今昔を写真や資料で紹介する展示室になっています。郷土博物館から入館できます。




石田光成の水攻め

天正18年(1590)年3月、豊臣秀吉は関東平定のため、そのころ関東を支配していた北条氏の拠点である小田原へ出陣しました。忍城主の成田氏は北条氏に属していたため、秀吉方の武将、石田三成によって攻められることになりました。
6月5日、三成は地形や季節を考えて水攻めを計画し、約1週間で延長28キロにもおよぶ堤を築き、利根川と荒川の水を引き入れるという大作戦をおこないました。
しかし、城が沈まなかったため、これを見た人々は城が沈まないのは浮くからだと考え、忍城は「浮き城」として、その名を轟かせました。    ☆

現実には、忍城の地形がまわりよりも少し高かったため、沈まなかったと考えられます。
その後堤は切れてしまい、水攻めは失敗に終わりました。忍城の戦いは小田原城が7月6日に開城した後も続きましたが、最終的には開城して7月14日に豊臣軍に引き渡されました。
三成の築いた堤は、市内堤根地区に「石田堤」として、今も一部がのこっています。

江戸時代の忍城
天正18年(1590)徳川家康が関東に入ると、家康の四男松平忠吉が十万石で忍城に入城します。

以後江戸時代をつうじて、忍城には徳川の譜代や親藩の大名が城主として入りました。

寛永16年(1639)に幕府の老中であった阿部忠秋が五万石で城主となると、忍城と城下町の整備がはじめられました。

元禄7年(1694)、孫の阿部正武のときに十万石となり、元禄15年(1702)には御三階櫓(ごさんかいやぐら)が完成し、名実ともに忍藩十万石の城としてのかたちが整いました。

文政6年(1823)に阿部氏が福島県の白河へ移ると、忍城には三重県の桑名から松平忠堯(まつだいらただたか・奥平松平氏)が入り、以後明治維新まで松平氏が城主でした。
城下町行田
行田(ぎょうだ)は忍城の城下町として発展してきました。
東西に走る本町通り(絵図中央の大通り・現在の国道125号線)と、本町通りから南にのびる新町通り(あらまちどおり・絵図右側の縦にのびる通り)に面して、さまざまな町屋がありました。この通りは、日光参詣の脇往還で、鴻巣から館林にぬける街道でもありました。

二つの通りの交わる交差点には、高札場があり、その付近には本陣・脇本陣がありました。

また、本町通りの東で南にわかれる通りは、大工町ともいわれ、阿部氏の忍城修築のとき集めた大工さんたちが住んだことから、その名がついています。




     \イケメン/
行田 忍城おもてなし\/甲冑隊 HP

毎週 イベントがあるようです。

出陣予定表を確認されてご訪問ください。

楽しいことが起こりそうです。


コスプレイベント開催中
撮影は必ず一声かけてから・・・

お願いすると、ポーズをとってくださいました。

ここの画像は風景に写り込んだ中から
切りとったものです。

**************掲載謝礼***********
写真を掲載させていただいた方
薄謝をご用意しています。
ご連絡ください。なお、
写真掲載に、不都合がございましたら、
ご一報ください。→:連絡先こちら!
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銅人形

行田市内の国道125号線沿いに並ぶ櫓の上では、昔ながらの遊びに興じる銅人形でできた童たちの
姿があります。

銅人形の童たちが遊ぶまちと題された作品で、
銅人形の製作は、赤川政由氏によるものです。

この子はシャボン玉遊びをしているのでしょうか、

全部で39体あるそうです。どうぞお立ち寄りになってかわいい子供のしぐさに癒されてください。

古代蓮の里に向かいます。

ウィキペディア、行田市HPを参考にしました。
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