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11/3、 11/6、 11/13 と、休日3回を使い那須塩原の秋の変遷を撮りにそれぞれ日帰りで出かけました。
今回は天候に恵まれた最終回。谷のもみじは美しさを増し、山を見上げると そろそろ色あせ、紅葉の終わりを感じました。
七ツ岩吊り橋付近のもみじです。
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美しい紅葉です。
こんなにも カ・ラ・フ・ル
何処を切り取って撮っても
傷んだ葉っぱが見つかりません。 |
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七ツ岩吊り橋
箒川に架かる全長87メートルの橋で、七つ岩の近くにあることからこの名が付けられました。橋の色を擬木塗装にしたり、床板にも木が使われるなど周辺の景観との調和も考えられています。 |
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橋を渡る私の足の下に、
箒川の流れが見えます。 |
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湯っ歩の里のもみじ
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遊園橋付近
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オシドリ、カモ、カモ、オシドリと、 |
並んで水面を進む仲良しの鳥たち。
50羽くらいのオシドリが
水遊びをしていました。 |
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大田原銀行塩原支店長の大橋義雄氏が銀行を辞して始めた会社が塩原遊園地株式会社で、塩原袖ヶ沢温泉「万人風呂 霞上館」を運営。
万人風呂へ向かう「遊園道」を自力で建設し、箒川にかかる遊園橋にその名が残っています。
当時は木橋で、一度流され架け替えられたそうです。 |
左水色の上に少し見えるのが 遊園橋です。
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三島通庸(みしま みちつね) 紀恩碑付近
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三島通庸 紀恩碑
この紀恩碑は、明治17年、栃木県令三島通庸が西那須野から塩原、さらに会津に通ずる今の塩原街道を開削し、その功績に感謝するために、明治33年に建てられたものである。
塩原は幕末までは、宇都宮藩領で塩原への本道は西廻りと称し、高徳、藤原、高原、新潟を経由したものである。この頃の年間湯治客は6千人余であった。
東廻りと称せられる、塩原街道は、関谷より狭小な馬道であり、新道の開削には、渓谷、断崖に阻まれた難所であったが、県令自ら監督し、橋をかけ、岩を削りその大工事を完成させたのである。
里程 三島〜古町 19.4km
人夫 124,400余人
費用 献夫の外 48,400余円
工期 5ヶ月 ◆ |
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◆この新道の完成により交通は、ますます便利になり明治30年頃には、年間湯治客は3万人をこえ、名士の別荘は30余軒に及んだ。
明治36年、三島家は、別荘を皇室に献上、これより塩原御用邸として、新御殿も造営し大正天皇は毎夏ご愛用された。
現在は、この街道も「塩原バレーライン」として整備され、全国有数の観光温泉郷として発展した。
三島通庸は、尾崎紅葉、奥蘭田とともに、塩原発展の三恩人として奉られ、毎年9月18日には感謝祭が行われる。 |
-塩原町- 立札より |
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三島通庸
明治時代の内務官僚。天保(てんぽう)6年6月1日、薩摩(さつま)藩士通純の長男に生まれる。討幕運動、戊辰戦争(ぼしんせんそう)に参加。維新後、東京府権(ごん)参事、教部大丞(だいじょう)を経て、1874年(明治7)酒田県令となり、封建地代の廃止を求める農民運動「わっぱ騒動」を弾圧。1876年山形県令、ついで1882年福島県令となり、会津若松から山形・栃木・新潟各県に通じる三方(さんぽう)道路の工事を計画。福島県会(議長河野広中(ひろなか))と衝突し、抵抗運動を組織した県下自由党員に弾圧を加えた(福島事件)。翌1883年栃木県令を兼任して同県下でも土木工事を推し進め、また、急進的自由党員から命をねらわれた。1884年内務省土木局長に転じ、翌1885年警視総監に就任。1887年三大事件建白運動を弾圧し、保安条例を執行して民権家570人を東京から追放した。同年子爵。明治21年10月23日死去。国立国会図書館所蔵の「三島通庸関係文書」は、自由民権運動研究の重要史料である。 -Yahoo百科事典より引用- |
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天狗岩線歩道周辺
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11/3に訪問した時には
鮮やかに紅葉していた山も、今では色がさめて
秋の深まりを感じました。 |
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天狗岩 |
箒川ダム付近
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立札、Yahoo百科事典を参考にしました。
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