892  天心の六角堂

茨城県(Ibaragi-ken)
12/04/29 Sun. 


お気に召さないときは止めてください。

♪「悲愴」ベートーベン
ピアノ バージョンです♪

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東日本大震災で流されてしまった 岡倉天心の六角堂が、再建され、昨日から一般公開されたので 訪ねました。





六角堂に行く前に、五浦(いづら)美術館に行きました。
茨城県天心記念五浦美術館
営業時間:9:30~17:00
休館日:月曜日(祝翌日)
電話:0293-46-5311
入場料:180円(企画展別途)

岡倉天心ら五浦にゆかりのある作家たちの業績を紹介する美術館。
岡倉天心記念室では、書簡や遺品などのほか、横山大観、下村観山など
「五浦の作家たち」の作品も展示しています。




暗  愁
唯独り 夢か現か白影の
影の行末は光かや 月白し
星を集めて大空の 玉なす
夜半の 凄しさよ
暗香花不識 遺響谷空譍
玉のかけはし下り来るは
影か君か
片影の里にて
天心子






戒  告
私が死んだら、
悲しみの鐘を鳴らすな、旗をたてるな。
人里遠い岸辺、つもる松葉の下ふかく、ひっそりと埋めてくれ
------あのひとの詩を私の胸に置いて、
私の挽歌は鴎らにうたわせよ。
もし碑をたてねばならぬとなら、
いささかの水仙と、たぐいまれな芳香を放つ一本の梅を。
さいわいにして、はるか遠い日、海もほのかに白む一夜、
甘美な月の光をふむ、あのひとの足音の
聞こえることもあるだろう。
1913年8月1日
天心美文詩「戒告」より  大岡信 訳






天心遺跡記念公園
(日本美術院第一部五浦研究所跡)
 ここは、岡倉天心(覚三)が明治39年(1906)11月に、日本美術院を東京谷中から五浦に移したとき、研究所(画塾)が建てられたところです。
五浦時代は大正2年(1913)9月に天心がなくなるまでの数年間にすぎませんでしたが、大観、観山、春草らは、天心の教えを受けて研究にはげみ、すぐれた作品を今日に残しています。
 この地は、長い間荒れ地になっていましたが、近代日本美術史上かけがえのない遺跡として、観光資源保護財団が岡倉家から管理の委託を受けて、昭和53年から3年間かけて整備にあたり、昭和55年11月8日新たに「天心遺跡記念公園」として一般に公開することになったものです。
昭和57年3月1日 財団法人日本ナショナルトラスト
※東日本大震災の影響かわかりませんが、
公園とされる敷地は何もなく草が茂っていました。







天心遺跡記念公園から見えた海岸風景








黄門の井戸
元禄年間、徳川光圀が領内巡視の折この地を訪れた際、喉の渇きを覚え、井戸はないかと供のものが捜しまわり、畦の脇に古井戸を発見した。ただし、水は底深く飲むことができず、光圀公が井戸を覗き見たときに杖が井戸の淵にあたり、水がコンコンと湧き出て難なく飲むことができた。その後、この井戸は『黄門の井戸』と呼ばれ、涼味溢れる水を永く土地の民に与えたといわれている。
北茨城市







岡倉天心の墓地
市指定文化財
 大正2年(1913)9月2日、50歳で亡くなった岡倉天心は、東京の染井墓地に埋葬された。 9月末、天心の辞世と伝えられる歌に込められた遺志を汲み、五浦の地に染井墓地と同じ土饅頭型の簡素な丸い墓を作り、分骨が行われた。

我逝かば 花な手向けそ浜千鳥
呼びかう声を印にて
落ち葉に深く埋めてよ
十二万年明月の夜
弔ひ来ん人を松の陰







五浦のお墓

ちょうど一年後、2013年4月28日に染井墓地を訪問した際
天心のお墓を見つけました。
土饅頭型ではなく簡素な墓石でした。 オンマウス!

ウォーナー像及び覆堂
 天心の教えを受けた美術史家ラングドン・ウォーナーは第二次大戦中、爆撃対象から奈良、京都などの日本の都市を外す文化財リストをアメリカ政府に提出したとされる。その功績を称えようと日立製作所から虚像建設の計画が起こり、各方面からの寄付によって、昭和45年3月ウォーナー博士功績顕彰会がこれを建設した。肖像は平櫛田中が制作、美術史家矢代幸雄が台座の賛文を草した。覆堂は、天心ゆかりの日本の文化財の象徴として、法隆寺夢殿を模して設計されている。


天心の家




天心邸
 明治37年(1904)2月、自らの設計を平潟の棟梁小倉源蔵に託し、天心はボストン美術館の仕事のためアメリカへと旅立った。天心が五浦の地を手に入れた際には、鮑料理の割烹観浦楼の建物がまだ残っていた。借りの住居に使っていたその建物の木材を使ったらしく、新居は豪華ではないが、風雅な趣となった。当初は62坪だったが、明治40年にされに改築して拡張した。天心没後、西側にあった12畳の書斎や東側の浴室など一部が撤去されている。








石碑の画像がありませんが、説明です。

石碑 「亜細亜ハーな里」(アジアはひとつなり)
天心が没して25年後、日中戦争が勃発した。『東洋の理想』の冒頭の言葉「Asia is one」は大東亜共栄圏という戦争遂行の理念の一つとして利用され、一躍世に広まった。そうした背景のもと、天心終焉の地・赤倉の土地保存のため、岡倉天心偉積顕彰会が昭和17年に設立された。これを機に五浦の土地建物が顕彰会に寄贈され、この碑が建立された。
「亜細亜ハーなり」の文字は横山大観が揮毫し、横顔の浮き彫りは美術院同人の新海竹蔵が制作した。








いよいよ 再建されたばかりの六角堂へ。




超高い六角堂の人口密度!



六角堂 茨城大学五浦美術文化研究所 HP
茨城県北茨城大津町字五浦727-2
電話:0293-46-0766
営業時間9:00~17:00 入場は16:30まで
休館日:月曜日(祝翌日)12/29~1/3
料金:大人=300円(小・中学生以下は無料)




六角堂の中には入れません。
真新しい木の香りと、ペンキのにおいがします。
天心が眺めた六角堂からの景色、ご覧いただけますか?







六角堂は、横山大観や岡倉天心が思索にふけった場所です。















後で対岸から、六角堂の写真を撮ります。























向こうに見えるのが天心邸です。
大勢の方が来ています。







山荘を思わせる苔むした小道




岡倉天心

明治時代に日本美術の復興・保存に力を注ぎ、日本文化を広く海外に紹介しながら、自らも創作活動を行いました。
日本美術史上欠かせない人です。


天心・六角堂  復興プロジェクト
茨城大学


東日本大震災による被害と再建
六角堂・天心邸・長屋門は、「国土の歴史的景観に寄与する」登録文化財として認定されていましたが、2011年3月11日の東日本大震災がもたらした大津波により、六角堂は基部以外すべて流失し、天心邸も床下まで浸水、損傷を被りました。現在『岡倉天心記念六角堂等復興基金』を立ち上げ、六角堂の天心建造当初の形への復元再建をめざすと共に、天心邸の修復を計画中。






六角堂は、海に突き出た岩盤の上に建てられています。天心は、六角堂を「観瀾亭(かんらんてい)」[大波を見る東屋]と呼んでいました。わずか7.7平方メートルの小建築です。


六角堂から見えた対岸五浦岬公園からの画像です。
もう、人影が見えません。
人口密度も低下したようです。^^*







後ろに見えるのが六角堂です。






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お気づきのこと等がございましたら
ご一報ください。→:こちら!
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説明は展示パネルより参考・引用しました。


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今日もお出で頂きありがとうございました。
よろしかったら 次回もお付き合いください!


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