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住所=〒484-0000愛知県犬山市内山1番地 電話=0568-67-0314 入村料=大人1日乗り物券付2,700円 開村時間=上記までお問い合わせください |
-バス、電車- 『名鉄名古屋駅』から『名鉄犬山駅』下車 バス20分 ※犬山駅は東口です。「明治村行」にご乗車ください。 『名古屋「名鉄バスセンター」』 『栄』から明治村行バス(毎日運行!) -車- 中央自動車道「小牧東IC」から3km 国道41号上小口2丁目交差点から6km または、兼清交差点から5km 国道19号明知町北交差点(小牧東インター道路利用)から5km |
明治37年(1904)2月、韓国・満州を舞台に始まった日露戦争は、ロシア国内の混乱もあり、戦局は日本に有利に展開、翌38年3月の奉天の会戦、同年5月の日本海海戦により、日本の軍事上の勝利はほぼ決定した。しかし、日本にとってもそれ以上長期の戦争は国力の許すところでなく、米国大統領セオドア=ルーズヴェルトの斡旋を受け、同年9月5日、日露両国はそれぞれ小村寿太郎、セルゲイ=ウィッテを首席全権として、米国ニューハンプシャー州のポーツマスで講和条約(ポーツマス条約)を結んだ。この条約により日本は、韓国に対する指導権、旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道の利権、北緯50度以南の樺太、並びに沿海州・カムチャッカの漁業権等を獲得した。* |
日露戦争を終結させるため、明治38年(1905)米国ニューハンプシャー州ポーツマスの海軍廠内で、日露講和会議が開かれたが、その時会議場に置かれていた大テーブルである。このテーブルを挟んで両国代表が1か月近く交渉を重ね、又、その卓上で講和条約(ポーツマス条約)が調印された。我が国近代史上に重要なこの記念資料は、60年近く米国ニューヨーク州トロイ市のレンスレア工科大学に保管されていたが、このたび、山田真早志氏の奨学資金提供を機縁に、日米友好発展の一助にと、同大学より明治村に寄贈を受け、多くの方にご覧いただきたいとの趣旨に鑑み、明治村ではここに展示・公開するものである。 |
宮津裁判所法廷は、「天橋立」のある宮津湾の港市、丹後の要衝宮津の中心地に位置していました。厳しさを秘め、和洋折衷様式でできた建物は、江戸時代の白洲から法廷へと移り変わる新しい裁判所の形でもありました。 日本に近代的な意味での裁判所の発端は明治元年(1868)で、政体書の中で太政官の権力を立法・行政・司法の三権に分離し、司法権を握る刑法官を設けたのを契機として、司法権の独立へと向かうことになりました。その後、裁判所の種類や名称に様々な変遷があり、明治23年(1890)フランスの法律を手本とした裁判所構成法の施行により、司法制度はその確立をみました。このような確立期の明治19年(1886)に宮津裁判所は建てられてのです。その法廷の様子を、今も明治村で見ることができます。* |
書信室は在監者(囚人)が家族などへの手紙を書く場所です。 明治41年の『監獄法』には「在監者には信書を発し又はこれを受くることは之を許す」と記され、手紙を書くことは許されていましたが、発信する回数やあて先が親族に限られるなど制限が加えられていました。 この書信室は明治21年に竣工した東京集治監(旧小菅刑務所、、現東京拘置所の前身)内の様子を描いた絵図を基に再現しています。 |
網走監獄(当時釧路監獄署網走外役所と称した)が開設されたのは明治23年でしたが明治42年4月山火事の延焼により、教誨堂、独居房1棟、倉庫棟を残して焼失しました。 同年8月復旧工事を開始し、明治45年3月に竣工しました。この中央見張り所も同期間に建設されたものです。ただし窓廻りは後に補修されたものと思われます。 この見張り所が更新のため取り壊されたので、古材の寄贈を受け、昭和52年3月、明治村に移築復元しました。 |
明治時代の監獄の食事は、少ない予算の中から献立を作るため、恵まれたものではなかった。-後略- |
この建物は看守を中心にして十字放射型に配された監房棟の一部分です、雑居房は江戸時代の牢獄の形式に近く、一室に多人数収容していました。排便施設も取り込まれているため衛生面を重視して吹さらしにされています。 建物の構造は洋小屋組に越屋根が載せられて和洋折衷です。堅い栗材で鳥かご状に組まれ、堅固に造られている。 監獄建築として日本で最初に展示公開された建物です。 |
52-金沢監獄正門 ************************* お気づきのこと等がございましたら ご一報ください。→:こちら! ************************* |
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