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住所=〒484-0000愛知県犬山市内山1番地 電話=0568-67-0314 入村料=大人1日乗り物券付2,700円 開村時間=上記までお問い合わせください |
-バス、電車- 『名鉄名古屋駅』から『名鉄犬山駅』下車 バス20分 ※犬山駅は東口です。「明治村行」にご乗車ください。 『名古屋「名鉄バスセンター」』 『栄』から明治村行バス(毎日運行!) -車- 中央自動車道「小牧東IC」から3km 国道41号上小口2丁目交差点から6km または、兼清交差点から5km 国道19号明知町北交差点(小牧東インター道路利用)から5km |
この建物は西郷隆盛の弟、西郷従道が建てた住宅のうち、接客用に設けられた洋館である。従道は陸海軍の大臣を歴任していたため、在日外交官の来客も多く、明治22年(1889)には明治天皇の行幸も仰いだ。 設計にはフランス人レスカスが関与していると伝えられ、建築金具や階段などをフランスから取り寄せているほか、2階には日本三景が描かれた陶板で飾った暖炉も設置されてい居る。 この建物は耐震性を高める工夫がなされており、屋根には軽い銅板が葺かれ、壁の内側にはおもりとなるように煉瓦が埋め込まれていた。 |
このように当時の人々からは、いまいちつかみどころがない人物だとみられていました。 現在も兄隆盛の陰に隠れて彼の人物像や業績はあまり知られていません。 しかし彼は軍人として政治家として様々な活動をした政府の中心人物の一人でした。 ここではそんな西郷従道の活動の一部を紹介します。 |
住宅内の一部を、文献や古写真などをもとに、夏目漱石が「我輩は猫である」を執筆した当時の様子に再現しています。 |
この建物は当初は医学士中島襄吉の新居として建てられたものであるが、明治の文豪森鴎外と夏目漱石が時を隔てて借りた家である。 鷗外は明治23年から1年半ほどこの家に住み、『文づかひ』などの小説を書いた。約13年後、漱石が明治36年から約3年住み、『吾輩は猫である』を書いて文壇でその名を高めた。文中ではこの家の様子をよく描写している。 住宅としては玄関脇の張り出した和室(書斎)、台所から座敷への中廊下は住宅の近代化の先駆けとみることができる。 なお、漱石が住んでいたころ、書斎の東北隅に幅6尺・奥行き3尺で西向きの押入れがあったことを示す痕跡が発見されたが、資料不足のため復元を行っていない。 |
千駄木町にあった、この家の前で撮った写真(明治39年頃)が紹介されていました。 長女:筆子さん、次女:恒子さん、三女:栄子さんが映っていました。 |
軍隊においてラッパは、様々な儀式の際に吹奏されるほか、兵舎内では起床・点呼・食事・消灯などの合図として、また戦場では様々な作戦行動の合図として吹奏されました。 |
日本赤十字社は、明治10年(1877)西南戦争が始まった時に敵味方の区別なく負傷者を救護するために設立された博愛社を前身とする。この中央病院は、我が国が明治19年(1886)に万国赤十字条約に加盟した際、皇室から賜った御料地に建てられた大規模病院である。西洋の病院にならった分棟式で、9棟の病棟が中庭を囲んで配置された。 設計監督は、赤坂離宮の設計者であり、日本最初の建築家4人のうちのひとり、片山東熊である。ハーフティーンバースタイルを基調とした洋風になっている。 病棟は高床で二重床とし、屋上には換気塔を設け、廊下はガラス張りとなっている。防湿、彩光、換気など病院建築として細心の注意が払われている。 |
日本赤十字社中央病院の病棟は特等病室、上等病室・中等病室・下等救助病室の4つのランクに分けられています。この病室は下等救助病棟の5人部屋ですが、ここに展示しているものは、各病室で使用されたベッド及び調度品です。 (ベッドの種類、調度の種類が病室によって異なっています。) |
外科器械 明治末期に作製された携帯用外科器械 ************************* お気づきのこと等がございましたら ご一報ください。→:こちら! ************************* |
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