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所在地=〒 千葉県市川市国府台 3-9 |
京成本線 国府台駅から江戸川堤を歩いて15分 同駅から京成バス松戸行きで国立病院前下車徒歩5分 JR総武線 市川駅から京成バス松戸行きで国立病院前下車徒歩5分 |
着いてすぐに目に入った『紫烟草舎』という
北原白秋の移築された家を訪問しました。
『華やかに さびしき秋や 千町田の .
. ほなみがすゑを群 雀立つ』 白秋
市川市 / 市川市観光協会
里見公園(さとみこうえん)は千葉県市川市国府台にある市立公園。春の花見の名所として知られる。 面積8.2ha。江戸川の流れを見下ろす高台にあるため、江戸川、東京東部の市街、富士山等山々の眺望に優れている。 15世紀に、この地に太田道灌が仮陣を置き、弟の太田資忠らが国府台城を築いた。その後16世紀に里見氏・後北条氏の間で2度にわたる国府台合戦が戦われた。 |
公園の北半分は自然を残した樹林で、石棺の露出した前方後円墳の明戸古墳、国府台合戦の伝説を伝える夜泣き石(公園に隣接する総寧寺から移設)、北原白秋の旧居紫烟草舎(江戸川区から移築)等が残っている。
公園の南半分は西洋式庭園で、桜が多く、近年はバラの育成にも力を入れている。また、江戸川に近い斜面林の中に、弘法大師発見と伝えられる湧き水の羅漢の井が残っている。 自然が残されているため、春秋は小学校や幼稚園の遠足の地として親しまれている。 近くの江戸川堤、矢切の渡しと結んで散策コースとして歩かれることが多い。さらに、市川市では、京成線国府台駅・江戸川堤・里見公園・国府台緑地・じゅん菜池緑地・小塚山緑地・堀之内貝塚公園・北総線北国分駅をつなぐ道を、散策路「市川水と緑の回廊」として整備している。 |
公園の南半分の西洋庭園部分には、旧陸軍の病院(陸軍衛戍〈えいじゅ〉病院)があり、戦後も国立国府台病院(現・国立国際医療センター国府台病院)の精神科病棟として使用されていた。 公園の北半分の樹林の中には、1933年(昭和8年)まで里見八景園という遊園地があり、今も園内にはその庭園の名残が残されている。その後は私設の「里見公園」となったが、戦争の激化に伴い、旧陸軍の管理するところとなり、太平洋戦争中はこの樹林の中にいくつもの防空壕が掘られた。 1958年(昭和33年)、市川市立の公園となり、南半分の国府台病院の病棟が移転した跡は西洋式庭園となり、北半分の樹林の中の防空壕も埋められ、今日のように整備された。 |
一部に、園内に高射砲陣地があったとの説が流布しているが、誤りである。これは、以前、明戸古墳西(現お花見広場)にすり鉢状の大きな竪穴が2つあり、近所の子供たちが高射砲を据えた跡だといったのが始まりである。この竪穴は防空壕の跡であることが明らかになっている。 陣地の存在について、市川市立歴史博物館でも、この確たる根拠はないとの見方をとっている。 園内北の樹林は、月光仮面(KRテレビ〈後のTBS〉)、失楽園(よみうりテレビ)など、テレビドラマ等の撮影に使われたことも多い。(国府台参照) |
所在地=〒 千葉県市川市国府台 3-10-1 山号=安国山 宗派=曹洞宗 寺格=関三刹 中興年=寛文3年(1663) 中興=徳川家綱 正式名=安国山総寧禅寺 別称=常安寺(旧称) |
京成電鉄『国府台駅』から徒歩16分 |
享禄3年(1530年)、戦乱によって總寧寺が焼失。8世住持越翁宗超は、遠江国掛川に退避して同地に常安寺として再建した。この常安寺は永禄年間に戦乱によって焼失。住持らは常陸国に落ち延びた。 天正3年(1575年)、常安寺は北条氏政によって関宿宇和田(現在の埼玉県幸手市)に移転。これは常安寺再建を図る11世住持義翁盛訓の嘆願と関宿城の簗田氏に対する氏政の牽制策の合致によるとされている。その後、総寧寺の旧称に復す(時期は不詳)。北条氏からは20貫、同氏滅亡後の新領主・徳川氏からは改めて20石が与えられた。 元和3年(1617年)、徳川秀忠によって関宿内町(現在の千葉県野田市)に移転。寛文3年(1663年)、徳川家綱によって現在地(国府台城跡地)に移転。これは江戸川の洪水を避けるためという。2年後に寺領として128石5斗を与えられ、曹洞宗関東僧録司となった。 お寺は嘉永3年頃(1850年)焼失し、文久2年(1862年)再興された。明治維新後、寺領が新政府により上知されている。 |
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