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所在地=埼玉県幸手市大字内国府間 開催時期:3月下旬から4月上旬頃。 . 桜の開花状況に応じた約2週間 |
東武日光線:幸手駅より朝日バス「五霞町役場」行き 『権現堂』にて下車、徒歩1分 ※開花シーズンには臨時直行バスが運行されます。 |
『そよ風に花びらは舞う順礼の .
. 碑(いしぶみ)かこむ堤の桜』 郷子
-幸手市・幸手市教育委員会-
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権現堂堤(ごんげんどうつつみ)は、埼玉県幸手市内国府間にある、埼玉県内はもとより関東地方でも有数の桜の名所で、権現堂桜堤とも呼ばれています。 周辺に整備された県営「権現堂公園」があります。 |
中川の堤防上約1kmにわたり、約1000本の桜並木が続きます。桜はソメイヨシノで、今が見ごろです。桜の開花と同時期に堤下に広がるアブラナも咲くため、ピンクと黄色のコントラストが美しく映えます。堤下には他にも全国から集められた様々な種類の桜が植樹されているそうで、桜祭りの期間中は、中川に架かる外野橋は夜間ライトアップされ、夜桜見物も楽しそうです。また、100種約15,000株のアジサイや、約100万本の曼珠沙華(ヒガンバナ)が堤に植えられています。 |
社団法人日本観光協会が主催する平成19年度の「花の観光地づくり大賞」において「フラワーツーリズム賞」を受賞し、権現堂堤の桜は2000年(平成12年)5月5日には、埼玉新聞社の「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」に選出されているそうです。 |
江戸時代天正年間に利根川の支流(現在は分流)の権現堂川の堤防として築かれたものと言われ、かつては6 kmにわたり約3000本の桜があり、大正時代から桜の名所として賑わっていました。また、1876年(明治9年)に明治天皇が東北巡幸の際に立寄ったことから、行幸(みゆき)堤とも呼ばれるようになりました。なお、現在の日光街道(現国道4号)の栗橋交差点(国道125号との交差点)付近から中川に架かる行幸橋にかけての道路用地となっている築堤は、かつての行幸堤の名残で一部の地図にはその旨が書かれている事があります。 |
1920年(大正9年)に桜を植え替える運動は既に始まっていましたが、利根川や江戸川の流路変更に伴い、権現堂川は明治時代の終わりに締め切られ、1933年(昭和8年)に廃川となりました。そのため、堤防は荒れ果て、堤防の桜は終戦前後の混乱や燃料にするために、その多くが伐採されてしまいました。 |
1949年(昭和24年)、旧権現堂川堤防のうち中川の堤防として残った部分へ改めてソメイヨシノを植樹したものが現在の権現堂堤です。なお、1988年(昭和63年)には周辺の休耕田にアブラナが、1996年(平成8年)には堤の一部にアジサイが植えられました。 また2000年(平成12年)には、堤の東半分にヒガンバナ(曼珠沙華)が、2003年(平成15年)には堤の一部にスイセンが植えられました。 |
2008年(平成20年)、権現堂調節池(行幸湖)と合わせ、埼玉県営権現堂公園として整備されました。 |
権現堂堤の上には、順礼供養塔と順礼供養の碑が建てられています。 享和2年(1802)6月、長雨のために水位が高まった利根川はついに決壊し、人々は土手の修復にあたりましたが、激しい濁流に工事を進めることができず手をこまねいていました。その時そこを通りかかった順礼親子がこれを見かねて、自ら人柱を申し出、逆巻く流れに身を投じるとたちまち洪水はおさまり、修復の工事が完成したといいます。 これに対し、順礼親子が工事は無駄だといったのに怒った人夫たちが親子を川に投げ込んでしまったという説もあります。どちらが本当かわかりませんが、順礼供養塔は、人身御供(ひとみごくう)になった順礼親子を供養するため、昭和8年に建立されたものです。 また順礼供養之碑には、明治、大正の有名な日本画家:結城素明の筆による母子順礼の姿が刻まれています。 |
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