c121 旧吉田茂邸と日本庭園

神奈川県(Kanagawa-Ken)
2019/06/16 Sun.  


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♪「ジムノペディー」サティー
ピアノ  バージョンです♪

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旧吉田茂邸と日本庭園

日本庭園






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No.c121 旧吉田茂邸と日本庭園
No.c121 Former Yoshida Shigeru house & garden

Kanagawa-Ken /Beautiful Japan
Photo30pieces/GreenSeason
♪=ジムノペディー / サティー
◆銅像
◆七賢堂
◆造園家、中島健氏
◆池泉回遊式
◆吉田五十八氏
◆和製チャーチル
◇邸宅と日本庭園
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内門(兜門)
軒先に曲線状の切り欠きがあり、兜の形に似ていることから
「兜門」と呼ばれます。また、サンフランシスコ講和条約締結を
記念して建てられたことから、別名「講和条約門」
ともいわれています。
インフォメーション 公式サイト

所在地=〒255-0005 神奈川県中郡大磯町西小磯418
問合せ= 0463-61-4777
開館時間= 9:00~16:30 (入館は6:00まで)
観覧料= 一般:500円 中・高校生:200円
2020年4月より 一般:510円 中・高校生:210円
休館日=毎週月曜日(祝日の時は翌日)
.     毎月1日・年末年始(12/29~1/4)
交通アクセス
JR東海道線『大磯駅』下車 
徒歩:約30分 2km
バス:「二宮駅行」「湘南大磯住宅行」→『城山公園前』下車
.   →徒歩5分
*








神奈川県大磯にある『旧吉田茂邸』を訪問しました。
旧吉田茂邸は、吉田茂の養父:吉田健三が明治17年に
別荘として建築したもので、その後増改築を重ね、
茂が昭和19年頃からその生涯を閉じる
昭和42年、89歳までを過ごした邸宅でした。
豪壮で近代的な数寄屋造りの本邸は、
建築家吉田五十八氏の設計のもと、
京都の宮大工により建築されました。
政界引退後も多くの政治家が『大磯詣』を行い、また、
国内外の要人が招かれるなど、近代政治舞台ともなりました。

ではお庭から散策します。







日本庭園

この日本庭園は、池を中心にその周囲を散策して
自然の移り変わりを愛でるもので、
『池泉回遊式』と呼ばれています。




心字池




設計者である造園家中島健氏は、
数寄屋建築の本邸との調和や
花を愛した茂の嗜好をふまえ、
様々な草花はツツジ類、ウメなどを多く取り入れ、
色彩豊かな庭造りを行い、
昭和36年頃に庭園が完成しました。







旧吉田茂邸の再建

平成21年3月、旧吉田茂邸は焼失してしまいましたが、
大磯町が再建し、平成29年4月より、一般公開されました。






大磯海岸








吉田茂銅像

昭和58年(1983年)に「吉田茂、澤田美喜両先生顕彰建立委員会」によって建立されました。日米講和条約締結の地、サンフランシスコと首都ワシントンの方角に顔を向けているといわれています。
銅像付近からは眺望が良く、伊豆大島、伊豆半島、相模湾、房総半島などが一望できます。







大磯海岸








大磯海岸








七賢堂

明治36年、伊藤博文の自邸、
大磯の「滄浪閣」に建立されたもの。
はじめ、明治維新の元勲のうち、
4人が祀られた「四賢堂」でした。

その後伊藤博文が祀られ、
昭和35年には吉田茂がこの地に移設し、
西園寺公望を合祀し、吉田茂本人も死後に合祀され、
現在の『七賢堂」となりました。
正面の扁額「七賢堂」の文字は
佐藤栄作の揮毫によるものです。







火事で唯一焼け残ったサンルーム

















花菖蒲




ガイドマップ






旧吉田茂邸




楓の間

昭和20年代に建てられた棟の一部で、
応接間として利用されていた。
首相時代には、白洲次郎らをはじめ
多くの政治家たちが訪れたという。








吉田茂の肖像画

吉田 茂=東久邇宮内閣や幣原内閣で
外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、
1946年5月22日から1947年5月24日、
および1948年10月15日から
1954年12月10日まで在任しました。

優れた政治感覚と強いリーダーシップで
戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、
戦後日本の礎を築きました。
ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから
「和製チャーチル」とも呼ばれました。
-ウィキペディアより-







書斎の北側の浴室。

舟形の湯船の作成には
大磯の船大工が関わったと言われています。







書斎の窓

吉田茂の私室で、
限られた身内以外は許可なく入れない部屋でした。







書斎








旧吉田茂邸の概要

 旧吉田茂邸は戦後の内閣総理大臣を務めた吉田茂(1878-1967)が暮らしていた邸宅です。もとは明治17年(1884)に吉田茂の養父・吉田健三が大磯の土地を購入し、その地に別荘を建てたのが始まりで、養父亡きあと財産の一部として吉田茂が邸宅を引き継ぎました。昭和20年(1945)より吉田は大磯の邸宅を本邸とし、晩年をこの地で過ごしました。







書斎

 この施設は吉田茂が暮らした当時の邸宅を復原したものです。昭和22年頃建てられた応接間棟、及び昭和30年代に近代数寄屋建築で有名な吉田五十八が設計した新館をメインに再建しています。







展示・休憩室










旧吉田邸は、平成21年3月22日に、
原因不明の火事により焼失しましたが、
神奈川県、大磯町が一体となり再建しました。
その室内を観覧しています。

 再建した建物は
、昭和20年代に木村得三郎の設計した
応接間棟、及び
昭和30年代に、吉田五十八(いそや)の設計した
新館棟からなります。
応接間棟は1F応接室(楓の間)と2Fの私室があります。
新館棟は、1Fのローズルームと2Fの
金の間、銀の間を含みます。

吉田五十八は、玄関・玄関ホール・中庭の設計も手掛けました。






金の間

賓客を迎えるための応接間として利用されていました。
「金の間」という名称は、
部屋の装飾に金を用いたことから来ています。
この部屋から箱根山や富士山、太平洋を一望でき、
吉田茂はここから見える富士山を
大層気に入り、毎日のように眺めていたそうです。









金の間、銀の間から見える富士山






銀の間

吉田茂が寝室として寝起きをしていた部屋。
寝たまま富士山が眺められる部屋







食堂(ローズルーム)

食堂として使用されていた部屋で、
アール・デコ調の室内が特徴です。







火事で唯一焼け残ったサンルーム

食堂から見えます。




室内から見える風景





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立札、ウィキペディアを参考にしました。


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