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所在地=〒330-0852 埼玉県さいたま市大宮区大成町3-47 TEL= 048-651-0088(代表) 開館時間=10:00~18:00 (入館は17:30まで) 休館日=毎週火曜日・年末年始 詳細は公式サイトで確認 入館料:一般個人:1,300円、小中高生:600円 幼児:300円 . ※ 幼児=3歳以上未就学児 駐車料金=一般車: 800円/日 大型車:2,000円/日 |
JR大宮駅よりニューシャトルにて「鉄道博物館駅」下車→ . 徒歩1分 |
1936年(S11)から、1115両造られた旧国鉄の代表的な貨物用蒸気機関車です。優れた性能には定評があり、愛称「デゴイチ」の名でも呼ばれ、全国各地で使われました。 旧国鉄の営業路線から蒸気機関車が最後に姿を消した1975年(S50)まで活躍しました。 このD51426号機(先頭から約3mの部分)は、北海道・豊北・中国地方で働き、1972年(S47)に廃車されました。 主要諸元:全長19,730mm 全幅2,800mm 全高:3,980mm 運転整備重量125.1t 走行距離:2,030,683km 製造年1940年 |
雨でも楽しめる さいたま市大宮区の
鉄道博物館に出掛けました。
転車台の回転風景を見学しました。
その他、鉄道に関する深い知識が得られ、
鉄道マニアにはたまらないミュージアムです。
1872年9月12日(太陽暦10月14日)、新橋と横浜を結ぶ日本最初の鉄道が開業しました。当時、日本では蒸気機関車を製造することはできず、10両の蒸気機関車を輸入しました。この1号機関車(150形式)は、それら10両の中で最初に完成したため、栄えある「1号機関車」となりました。 主に活躍した線区 東海道本線(新橋~横浜、大阪・神戸地区)、 横須賀線(大船~横須賀)、半田線(現 武豊線) 島原鉄道 車両諸元=形式:150 番号:150 全長:7.4m 製造年:1871(明治4)年 製造所:バルカン・ファウンドリー(英) ※国指定重要文化財(1997年指定)・鉄道記念物(1958年指定) ※1900年頃の仕様で展示しています |
人車鉄道(軌道)とは、鉄製のレールの上に乗せた客車や貨車(トロッコ)を人の力で押すもので、1895(M28)年に開業した「豆相(ずそう)人車鉄道」が最初です、小さな輸送力しかありませんが、おもに東日本に20社ほどあり、貨物専用のほか遊覧目的のものもありました。「松山人車軌道」は1922(T11)年に東北本線松山町駅前から松山町中心部まで約2.5kmを開業しましたが、1930(S5)年には自動車交通の発達による輸送量の減少により廃止されました。 |
1906(M39)年3月に公布された鉄道国有法により、主要な幹線鉄道の国有化で、鉄道経営が統一し、1912(M45)年6月には新橋~下関間をおよそ25時間で直通する特別急行列車が走り出します。当時は東京から下関へ、下関から関釜航路で釜山へ、そこから鉄道で中国大陸まで、さらにはロシアを経由してヨーロッパに至る鉄道、欧亜連絡ルートが整備され、1枚の切符で15日間かけパリまで行くことができました。この列車は当時の日本を代表する国際連結列車だったのです。 |
鉄道開業から1920年代まで、国鉄の旅客車は木製でした。しかし機関車の性能が向上し、列車が速くなると、事故の際の衝撃が大きくなり、木製車体の安全性が問題となりました。そこで、1927年に最初の鋼製客車として製造されました。この車両の晩年は津軽鉄道に譲渡され、冬は「ストーブ列車」として活躍しました。 車両諸元=形式:オハ31 番号:26 全長:17.0m 製造年:1927(S2)年 製造所:汽車製造 定員:80人 車体・社内/車体の材料と構造 骨組み・台枠・外板は鋼製です。当時は溶接技術が発達していなかったため、これらの組み立てにはリベットが使われています。木製の屋根は明り採り窓や通風機を備えた二重屋根となっています。 車体/アンチクライマー 衝突事故の際に隣り合った車両の一方が相手に乗り上がらないように、衝突時には車端部のヒダが互いに噛み合います。 ※寄贈 津軽鉄道株式会社 ※1940年頃の塗装で展示しています(電車の便所・洗面所を撤去し、車掌室を設置しています) |
この機関車が登場した1930年代は、世界的に流線形の鉄道車両が流行しました。当初は前後とも流線型にする案もありましたが、けん引している客車との隙間が大きく開くため、前側のみ流線型となりました。登場後は沼津機関区に配置され、「富士」など東海道本線の特急列車けん引を中心に活躍しました。1964年に一度引退したのち、1986年に復活を遂げ、高崎線、上越線などでイベント列車をけん引しました。 車両諸元=形式:EF55 番号:1 全長:19.2m . 製造年:1936(S11)年 製造所:日立製作所 おもに活躍した線区:東海道本線、東北本線、高崎線、 上越線、信越本線 |
20系客車が登場した頃の夜行特急は、寝台車だけでなく座席車を連結し、さまざまな旅客需要に応えていましたが、東海道新幹線開業後、寝台車を中心に運行することとなり、1964(S39)年、展示車両のナハネフ22形式が製造されました。「あさかぜ」には1965(S40)年 10月1日のダイヤ改正から使用されました。 |
外観の特徴 |
20系客車は寝台設備を納める車内空間を確保するため、設計上定められた車両寸法の限界まで車体を広げており、その屋根は丸みを帯びた形となっています。また、編成の顔の部分ともなるナハネフ22形式の後部は、曲面を描いた外観に大きな窓ガラスが取り付けられ、それまでの客車とは一線を画した優美なデザインが施されています。 展示車両のナハネフ22 1は、九州方面の特急、東北方面の特急・急行列車として1986(S61)年3月まで活躍した車両です。 |
高速運転を行うには非常に大きな動力(エネルギー)が必要になる。151系「こだま」の編成では2,400kwだった出力が、新幹線では12両編成で 8,880kw と3倍以上の出力を要する。これを大都市主体に導入している直流 1,500v で供給した場合、必要とする出力を得るための電流を架線に流すためには、単純に従来の倍の断面積が必要となり太く重いものとなる。また、変電所も電圧降下により設置間隔が短くなり、地上設備に莫大な経費がかかってしまう。一方、車両側もパンタグラフが集電する電流が大きくなり、集電部の構造(集電舟)が大型化するため、高速では架線と車体の振動に対してパンタグラフの追従性が悪くなる。このように直流での高速運転は、当時の技術では不可能であった。 そこで、北陸本線や常磐線、鹿児島本線で実用化されて間もない単相の交流電化方式が採用された。この方式では、車両に変圧器を設置するため車両費は高くなるが、架線電圧を高くすることができるため、地上設備は変電所の間隔が長くでき、かつ商用周波数を使用するため設備は単純となる。また、電圧を高くした分、運転するための電流は小さくでき、パンタグラフの集電部の構造(集電舟)が小型化できることで、慣性力は高くなり追従性が向上する。このように交流電化方式では、システム全体の経済効率も向上させることができた。 なお電圧は在来線の2万Vから国際標準規格である2万5,000Vに引き上げられた。また日本国内では、商用周波数が富士川を境に東日本は50Hz、西日本は60Hzとなっているが、東海道新幹線では東京~新大阪間の3/4が60Hzの地域にあたり、今後山陽方面への延伸が想定されることを考慮して、全線を60Hzとした。そのため、関東地方の地上設備には周波数変換装置を設置し50Hzを60Hzに変換した。 このように当時国鉄が研究を重ねて実用化し、信頼性を確立していた電車方式と交流電化が、新幹線を実現させる大きな技術的要因となった。 |
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