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所在地=〒110-0001 東京都台東区谷中7丁目14-8 TEL=03-3821-4474 / FAX=03-3821-4482 開創=鎌倉時代後期(13世紀後半) 御本尊=阿弥陀如来 |
地下鉄千代田線:『千駄木』駅 徒歩15分 JR線『日暮里』駅南口 徒歩2分 |
本像については『武江年表』元禄3年(1690)の項に、『5月、谷中感応寺丈六仏建立、願主未詳』とあり、像背面の銘文にも、制作年代は元禄3年、鋳工は神田鍋町に住む大田久右衛門と刻まれている。 また、同銘文中には「日遼(にちりょう)」の名が見えるが、これは日蓮宗感応寺第15世住持のことで、同寺が天台宗に改宗して天王寺と寺名を変える直前の、日蓮宗最後の住持である。 中略 なお、「丈六仏」とは釈迦の身長に因んで一丈六尺の高さに作る仏像を言い、坐像の場合はその2分の1の高さ、八尺に作るのが普通である。 本像は、明治41年刊『新撰東京明所図会』に「唐銅丈六釈迦」と記され、東京のシンボリックな存在「天王寺大仏」として親しまれていたことが知られる。 |
所在地=〒110-0001 東京都台東区谷中7丁目 5-24 . 桜並木沿い 公開日=通年 公開時間=終日 料金=なし |
JR ・京成電鉄=「日暮里」駅より徒歩6分 |
谷中霊園の桜並木を散策中、竹垣一覧解説を見つけました。
今はブロック塀などが増え、竹垣はあまり見かけなくなりましたが、
パネルによると
『日本の竹垣の歴史は、ほぼ平安・鎌倉時代に発展したことが
当時の絵巻物等によって知らされています。
竹はもともと手近な素材であっただけに、安上がりな囲い等の
材料として愛され利用されました。江戸時代になると全国に庭園
や路地が作られ、竹垣も各地に広まり様々な形式が創造され
ました。竹垣の形式は実に様々で、同種の垣であっても部分的に
変化を見せた形や、他の種類の垣と結合した構造の垣も多くある
ため、完璧に分類することは難しいですが、大まかに整理しました。』
ということです。
最近HPにまとめた「戸越公園」でも竹垣の説明があったことを思い出し、
消えそうな日本の文化を伝承する努力を感じました。
龍安寺垣(透かし垣)
禅寺龍安寺の本坊に至る参道に長く作られている竹垣。
矢来垣に似ているが竹を地面に挿さず、
浮かしている所が特徴である。
大津垣(遮蔽垣)
滋賀大津の街道に作られたことから
その名が由来するといわれている。
基本的に真竹を細く割ったもので編んだ
縞垣の一種である。
鉄砲垣(遮蔽垣)
胴縁に対し、丸竹を表裏交互に取り付けていく技法。
昔火縄銃を準備するとき鉄砲を横に渡した木材に
表裏交互に立てかけた形から出た名称
丸竹をやや重くなるくらいに取り付けているのが特徴
目隠しとともに飾りの目的もある。
竹穂(たけほ)垣
「竹穂」とは竹の枝を意味し、それを使った垣総称を竹穂垣と呼ぶ。
一定の形式があるのではなく、実に様々な垣があるが、
基本的には遮蔽垣(竹を隙間なく並べて、
垣の間が透けていない垣のこと。
目隠し目的に使用される)を意味する。
木賊(とくさ)垣
割竹を立てた様子が草のトクサによく似ていることから付いた名称
左右の竹の節を揃えず美しく散らしていることが特徴で
この技法を「木賊散らし」と呼ぶ。
四ツ目垣(透かし垣)
竹を縦横に組み合わせていく単純な柵形式の造形である。
柱と胴縁で四つ目の格子ができることから
名づけられたと思われる。
臥龍(がりゅう)垣
龍の背がうねっているかのような姿を持つ独特な竹垣。
龍をイメージしながら上下左右に変化させて
うねりを強調した表現が特徴。
細く割った竹を曲げていく高度な技量が要求される。
光悦(こうえつ)垣
本阿弥光悦ゆかりの光悦寺にあるものを基本とする透かし垣。
別名を臥牛垣ともいう。
親柱を一方だけに立てて上部の玉縁を曲線とし、
地面に差し込んで終わるという独特の姿を持っている。
金閣寺垣
禅寺鹿苑寺(通称:金閣寺)の境内にある竹垣。
低い立子を離して立て、それに太竹半割の玉縁と
押縁をかけるところが特色。
スッキリした感覚で丈夫な構造であり、足元垣の名作である。
黄緑色で表示した天王寺墓地に隣接した 黄色の寛永寺墓地に、徳川慶喜公墓所が あるようなので、行ってみましょう。 |
江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:1867年1月10日〈慶応2年12月5日〉‐ 1868年1月3日〈慶応3年12月9日〉)。 江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。 在任中に江戸入城しなかった唯一の将軍であり、最も長生きした将軍。御三卿一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務める。 徳川宗家を相続した約4ヶ月後に第15代将軍に就任。大政奉還や新政府軍への江戸開城を行なった。 明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員。 |
日本美術院は明治31年(1898)岡倉天心が中心になって「本邦美術の特性に基づきその維持開発を図る」ことを目的として創設された民間団体で、当初院長は天心、主幹は橋本雅邦、評議員には横山大観、下村観山らがいた。 活動は絵画が主で、従来の日本画の流派に反対し、洋画の手法をとり入れ、近代日本画に清新の気を与えた。 この場所に建てられた美術院は明治31年9月に竣工した木造二階建てで、南館(絵画研究室)と北館(事務室・工芸研究室・書斎・集会室)からなり、付属建物も2、3あったといわれている。明治39年(1906)12月に美術院が茨城県五浦(いずら)に移るまで、ここが活動の拠点となっていた。 昭和41年(1966)岡倉天心史跡記念六角堂が建てられ、堂内には平櫛田中作の天心坐像が安置されている。 平成11年3月31日 建設 |
所在地=〒110-0001 東京都台東区谷中5丁目7-10 公開日=通年 公開時間=終日 料金=なし |
JR『日暮里』駅から徒歩8分 |
パネル ************************* お気づきのこと等がございましたら ご一報ください。→:こちら! ************************* |
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