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所在地=〒040-0053 山梨県甲州市塩山小屋敷 2280 TEL= 0553-33-3011 拝観時間= 8:30~46:30(年中無休) 宝物館は12月~3月の間は毎週木曜日が休館 料金表
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車:中央自動車道『勝沼IC』⇒国道20号大和・大槻方面へ バス:JR中央線塩山駅南口⇒「西沢渓谷行」⇒『恵林寺前』 タクシー:JR中央線塩山駅~約20分 |
山梨県の恵林寺というお寺を訪ねました。 創建は元徳2年(1330)で、往古は鎌倉、円覚寺派、関東準十刹の寺格です。庫裡、方丈、うぐいす廊下、明王殿、武田信玄公墓所、柳沢墓所などを見学し、歴史を感じました。 元徳2年時甲斐牧ノ庄と称した当時地頭職(領主)二階堂出羽守貞藤(道蘊どううん)が、七朝帝師と尊称された夢窓国師を招き自邸を禅院としたのに始まる。戦国時代武田信玄の尊崇を受けた快川(かいせん)和尚の入山で寺勢を高め、永禄7年(1564)信玄自ら寺領寄進し当山を菩提寺と定めた。境内には本堂、庫裡、開山堂、赤門(重文)、三重塔が並び巨刹らしい雰囲気です。 |
丹塗りの門であるところから通称「赤門」とも呼ばれています。桐妻づくり、檜皮葺きで、本柱、控柱ともに円柱を用い、柱には粽(ちまき)形が付けられ、柱下には石造り礎盤が置かれています。中通しの本柱は控柱より太く大きく、これを桁行に通した頭貫で繋ぎ、その上に台輪を架し大度枓(だいと)・枠・肘木・実肘木を組み、軒先を海老虹梁で繋いでいます。 このように極めて簡単な宏か構架ではありますが、全体に木割りが大きく、その意匠は雄大であり、桃山期の豪放な気風をよく現しています。 |
恵林寺は織田信長に全山焼かれました。 近江の佐々木承禎らをひそかにかくまい逃れさせた快川国師に信長は怒り 国師はじめ百余人の僧侶らを三門へ集め火をつけました。 碑には「天正亡諸大和尚諸位禅師安骨場」とあり遺骨が埋葬されています。 |
構造は、一門一戸(いっけんいっこ)・楼門形式、この門を「三門」と称するのは、仏殿前に位置し、仏殿を法空・涅槃に擬し、そこへ入る端緒たる三解脱すなわち空門・無想門・無願門の意による三解脱門の略で、快川国師(かいせんこくし)が織田軍の兵火で焼討ちを受けた折「安禅必ずしも山水を須(もう)いず、心頭滅却すれば火自ずから涼し」と唱えて火定した場所に建ちます。 四本の隅通し柱は、階下が角柱造り、階上部分を」円柱造りとする技巧を凝らし、実肘木(さねひじき)・板肘木・木鼻などにみられる渦巻き状の絵様は室町末期から桃山期にかけての名作技法です。小規模ながら総体的に溢れる重厚・荘厳さは、同時代の建造物の中でも一品とされています。 |
禅寺のなかでもめずらしい、日本有数の大庫裡です。 信長による焼き討ちの後、徳川家康によって再建された壮大な伽藍は、明治38年の火災によってそのほとんどを焼失しました。現在の本堂、庫裏も、明治末期に再建されたものです。戦中には東京の学童疎開の場となり小学生約150人が寄宿生活を送った場所です。 |
本堂の正面を進むと、左手にみえるのが枯山水式の庭園です。力強い枝振りの松がそびえ、西の端に勅使門があります。 |
武田信玄は俗名を晴信といい清和源氏の新羅三郎義光の子孫信虎の嫡子として大永元年11月3日石水寺城に生まれました。 幼少より長禅寺に学び後に快川を師と仰いぎました。また好んで六韜三略、孫子の兵法を学びました。16歳の時元服して大善大夫従五位下に叙せられました。甲信両国の大守として早くから天下制覇の大志を抱き川中島5度の大合戦の後、北条と和し越前の朝倉、近江の浅井や本願寺と結び将軍足利義昭の意をうけて元亀3年3万の大軍を率いて上洛の途につき三方原に織田、徳川の連合軍を破り更に三河の野田城を陥れて宿望成らんとした時、病を得て帰国の途中信州駒場で死去しました。 信玄は稀にみる軍略家であり又外交家でもありました。仏教にも深く帰依し徳栄軒と号し大僧正の位をうけました。 |
1573年、53歳で亡くなった信玄公はこちらに眠っています。 命日の4月12日には毎年供養が行われているそうで、武田家家臣の墓約70基も信玄公を慕うかのように墓所後陣に並んでいます。 ※ 通常非公開(毎月12日のみ特別公開)のため、この日は明王殿の窓からの撮影で、こちらは墓石の裏側です。 |
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