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所在地=東京都台東区上野桜木1-16 (寛永寺霊園) 徳川家罹病見学は予約が必要。 寛永寺所在地=〒110-0002 東京都台東区上野桜木 1-14-11 寛永寺TEL= 03-3821-1259 宗旨=天台宗 秘仏ご本尊=薬師瑠璃光如来 寛永寺開門時間・閉門時間= 9:00~17:00 |
JR常磐線、京浜東北線=『上野』駅より徒歩 |
五代将軍綱吉は、延宝8年(1680)5月に兄家綱の死に伴って将軍の座に就き、宝永6年(1709)1月10日に63歳で没した。法名を常憲院という。綱吉ははじめ、善政を行い「天和の治」と讃えられたが、今日では「生類憐みの令」などを施工した将軍として著名。 元禄11年(1698)9月、この綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立された。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀之国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門である。又、それに伴って先聖殿(現湯島聖堂)が上野から湯島に移されている。 綱吉の霊廟は宝永6年の11月に竣工したが、それは歴代将軍の霊廟を通じてみても、もっとも整ったものの一つであった。ただ、その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失した。この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造り、前後軒唐破風付、銅瓦葺。 |
四代将軍家綱は、慶安4年(1651)4月に父・家光の死に伴って、わずか10歳で将軍の座につき、延宝8年(1680)5月8日二39歳で没した。法名を厳有院という。 病気がちであった家綱時代の政務は、主として重臣の手に任されていたが、特に後半の政治を担当した大老・酒井忠清が有名である。時代は家綱の襲職直後に起こった由比正雪の乱の解決を機に、ようやく安定期に入った。 家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したが、この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災いを免れた貴重な遺構である勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。 なお、このうち水盤舎は延宝8年に家綱のために造立されたものであるが、この勅額門は昭和32年の改修時に発見された墨書銘によって、もと家光の上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられる。 |
了翁禅師(1630-1707)は、江戸時代前期の黄檗宗(おうばくしゅう)の僧です。俗姓は鈴木氏。出羽国雄勝郡に生まれ、幼いころから仏門に入り、後に隠元禅師に師事します。諸国を巡るうち、霊薬の処方を夢に見て「錦袋円(きんたいえん)」と命名し、不忍池(しのばずのいけ)付近に薬屋を俗甥の大助に営ませます。その利益で難民救済や寛永寺に勧学寮【図書館】の設置など行いました。 こうした功績により輪王寺宮から勧学院権大僧都法印位を贈られています。宝永4年、78歳で没し、万福寺塔頭天真院に葬られました。 本碑は了翁禅師の業績を刻んだ顕彰碑で、生前に作られたものです。元々建てられた場所や、現在の場所に移築された時期などは不明です。 |
本鐘の大きさは、総高177.2cm、口径91.8cm、厳有院殿(4代将軍家綱)の1周忌にあたる、延宝9年(1681)5月8日に厳有院殿廟前の鐘楼に奉献された。明治維新以降に、寛永寺根本中堂の鐘として、当所に移されたと伝えられる。現在は、除夜の鐘や重要な法要の際に使用されている。 作者の椎名伊予守吉寛は、江戸時代前期(17世紀後半)に活躍した江戸の鋳物師で、神田鍋町に住した。延宝元年(1673)から貞享3年(1686)にかけて、銅鐘を中心に17例の作例が知られている。その中には増上寺や寛永寺などに関わるものも含まれており、幕府との関係の深さが窺える。 本鐘は、将軍家霊廟の儀式鐘で、近世初期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上でも貴重な遺品のひとつである。 平成18年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。 |
尾形乾山は、琳派の創始者として著名な画家・尾形光琳の弟である。寛文3年(1663)京都で生まれた。乾山のほか、深省・逃禅・習静堂・尚古斎・霊海・紫翠の別号がある。画業のほかにも書・茶をよくし、特に作陶は有名で、正徳・享保年間(1711~35)、輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下り、入谷に窯を開き、その作品は「入谷乾山」と呼ばれた。 寛保三年(1743)81歳で没し、下谷坂本の善養寺に葬られた。しかし、月日の経過につれ、乾山の墓の存在自体も忘れ去られてしまい、光琳の画風を慕う酒井抱一の手によって探り当てられ、文政6年(1823)、顕彰碑である「乾山深省蹟」が建てられた。抱一は江戸琳派の中心人物で、文化12年(1815)に光琳百回忌を営み、『光琳百図』『尾形流略印譜』を刊行、文政2年には光琳の墓所を整備するなど積極的に尾形兄弟の顕彰に努めた人物である。墓碑及び「乾山深省蹟」は、上野駅拡張のため移転した善養寺(現、豊島区西巣鴨4-8-25)内に現存し、東京都旧跡に指定されている。 当寛永寺境内の二つの碑は、昭和7年、その足跡が無くなることを惜しむ有志により復元建立されたものである。その経緯は、墓碑に刻まれ、それによると現、善養寺碑は、明治末の善養寺移転に際し、両碑共に当時鴬谷にあった国華倶楽部の庭へ、大正10年には公寛法親王との縁により寛永寺境内に、その後、西巣鴨の善養寺へと、三たび移転を重ねたとある。 なお、入谷ロータリーの一隅に「入谷乾山窯元碑」がある。 |
墓石の正面中央に、聖観世音菩薩の像を彫り右側には「当山学頭第四世贈大僧正慈海」左側に「山門西塔執行宝園院住持仙波北院第30世」背面に「元禄6年葵酉2月16日寂」と刻む。 慈海僧正は学徳をもって知られ、東叡山護国院、目黒不動尊、比叡山西塔宝園院、川越線馬喜多院を経て東叡山凌雲院に入った。東叡山は、寛永寺一山の山号で、一山を統轄、代表する学頭には凌雲院の住職が就任することを慣例としたという。学頭は、また門主・輪王寺宮の名代をつとめうる唯一の有資格者であり、学頭の名のとおり宮や一山の学問上の師でもあった。慈海版として知られる「法華経」「薬師経」の翻刻や「四教義算注」「標指鈔」30巻の著作がある。 寛永元年(1624)目黒で生誕。70歳で没した。没後、公弁法親王の奉請によって大僧正の位が贈られた。 墓は、初め凌雲院内にあったが、昭和33年東京文化会館建設のため寛永寺に移った。 |
この鬼瓦は、現在「黒門」の通称で親しまれている、寛永寺旧本坊表門(国指定重要文化財)に据えられていたものです。 旧本坊表門は寛永初年に、寛永寺の開山である天海大僧正自身が建てたものであり、天海自身をはじめ、いわゆる歴代の輪王寺宮が住まわれた場所の門でした。この門は、昭和12年、現在の東京国立博物館の地から現地に移築され、平成22年から行われた解体修理によって修復されました。このときの調査により、弦鬼瓦の制作年代は不明ながら、東側の「阿」形より西側の「吽」形が古いこと、かつては鳥衾(とりぶすま)【鬼瓦の上に長く反って突き出した円筒状の瓦】を接合する部分が設けられていましたが、現在の鬼瓦には鳥衾を取り付けた痕跡がなかったことが分かっています。 東側にあった「阿」形は耐用年数を過ぎていたため、修復の折に西側に意匠を合わせて作り替え、新たな息吹を門に与えています。この修復を機会として寛永寺根本中堂の屋根にあった鬼瓦と合わせ、ここに展示いたします。 |
上野寛永寺の旧本堂・根本中堂は、元禄十一年(1698)に現在の上野公園内大噴水の辺りに建立されますが慶応四年(1868)に彰義隊と新政府軍による上野戦争にて焼失してしまいました。 現在の根本中堂は、明治十二年に川越喜多院の本地堂を移築したもので、子院の大慈院(現寛永寺)があった場所に再建したものです。 |
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