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所在地=千葉県流山市流山6丁目670-1 電話= 04-7150-5750 観覧時間= 9:00~16:50(入館は16:30まで) 休館日=月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始(12/29~1/3) 料金:無料 無料駐車場=あり |
*電車:JR武蔵野線・つくばエクスプレス『南流山』駅より徒歩25分 *バス:「南流山」駅より東武バス流山おおたかの森駅西口行又は .クリーンセンター行『平和台駅前』下車 徒歩10分 *「南流山」駅より京成バス江戸川台駅行『流山五丁目』下車徒歩5分 *京成バス「流山おおたかの森」駅西口~流山市役所(平和台入口)~ . 流山おおたかの森駅 循環 『平和台駅入口』下車徒歩3分 *電車:流鉄流山線『平和台』駅より徒歩8分 |
江戸時代中頃まで、みりんは、関西で作られる色の濃いみりんでしたが、当時流山で酒造行を営んでいた秋元家、堀切家が切磋琢磨し、『天晴味淋』、『万上味淋』という、淡く澄んだ「白みりん」を相次いで誕生させました。 当時、白みりんは甘い飲み物として、お酒の苦手な人や江戸の女性たちの人気となり、江戸川の水運を利用して、白みりんを江戸に運び、流山に繁栄をもたらしました。 この土地一帯は、『天晴』、『万上』という流山白みりん2大ブランドの1つ、天晴みりんを開発した秋元家の工場跡地です。「天晴みりん」を開発した五代目三左衛門は、小林一茶と交流し、その活動を支えたことでも知られており、家業のかたわら俳句もたしなみ、俳号を双樹としました。交流を記念して、秋元本家の場所に一茶双樹記念館を開館しました。 |
幕末頃の下総地方の商家建築を再現。寄棟造り瓦葺の2階建てで、広い「土間」と畳敷きの「店」からなっています。また当時の商家につきものだった格子戸、揚戸、箱階段などもしつらえました。 一茶や双樹についてはもちろん、流山にゆかりの深い産品である味醂などに関した展示を行っています。 |
江戸時代の俳人小林一茶は、人生の多くを旅に過ごした。中でも流山を含む下総地方は最もよく訪れており、その地の俳友達に俳句を指導したり、情報交換したりして生活の糧を得ていた。 流山で一茶と親交が厚かったのは、醸造業を営み、味醂開発者の一人といわれる、5代目秋元三左衛門である。三左衛門は、双樹と号し、家業の一方俳句をたしなみ、経済的にも一茶を援助していた。 ※ 前記 重複のため中略 一茶と双樹の関係は、俳人と商家の大旦那というだけでなく、真の友人であったことがしのばれる。 流山市教育委員会では、此の地を一茶と双樹が親交を深めた流山市にとって由緒ある土地として、平成2年12月4日付で、流山市指定記念物(史跡)第1号に指定し、一茶双樹記念館として整備した。 安政期の建物を解体修理した双樹亭、枯山水の庭園、流山で味醂の生産が最も盛んであった時代を再現し、展示を行う秋元本家、茶会、句会などに利用できる一茶庵がある。 |
江戸時代の俳人小林一茶(1763~1827)は、享和3年(1803)以降、流山をはじめ小金・馬橋(松戸市)、守谷(茨城県守谷市)、布川(茨城県利根町)、田川(茨城県河内町)を頻繁に訪れています。 流山では、みりん醸造を始めた5代目秋元三左衛門(1757~1812)が、双樹という俳号で多くの俳句を残しています。一茶と双樹の親交はあつく、一茶はしばしば流山を訪れました。一茶の流山滞在は、享和3年4月から双樹が亡くなる文化9年(1812)10月までの9年間の間に、約50回(延べ130泊)を数えます。 一茶と双樹の交流・俳句の記録は「急逓記」、「享和句帖」、文化句帖」、「七番日記」に記されており、交流の深さがうかがえます。一茶が流山で詠んだと思われる句が刻まれた句碑は、一茶双樹記念館、赤城神社、光明院、向小金香取神社、市役所の敷地で見ることができます。 |
今、世界で約50か国・200万人以上の人々が、それぞれの母国語や英語で俳句を詠み、また俳句を楽しんでいるといわれています。 欧米では、アメリカ・ドイツ・イギリス・オランダ・ベルギー・フランスなどで、アジアでは、中国をはじめ、台湾・韓国・インドなどでも、俳句が盛んに行われています。 世界で最も短い詩・俳句。 「季節を意識する俳句は日本の俳句から世界の詩への偉大な贈り物」と評価する人もいます。 |
双樹亭に調和するように、寄棟造り瓦葺で外壁を下見板張りにしました。床の間と平書院を持ち、切り炉のある八畳の和室、水屋を持つ四畳の和室、広々とした縁側からなります。 茶会にはもちろん、仕切りを開け放てば句会などの集会にも利用できるように、機能的な造りとなっています。 |
江戸時代後期の俳人。通称、弥太郎、名、信之。別号、菊明、俳諧寺、蘇生坊、俳諧寺入道。農民の子。3歳で母を失い、8歳のとき迎えた継母と不和で、15歳の頃江戸へ奉公に出、いつしか俳諧をたしなみ、竹阿、素丸に師事。享和1 (1801) 年、父の没後継母子と遺産を争い、文化 10 (13) 年帰郷し、遺産を2分することで解決する。 52歳で妻帯、子をもうけたが妻子ともに死去、後妻を迎えたが離別、3度目の妻を迎えるなど、家庭的に恵まれず、文政 10 (27) 年類焼の厄にあい、土蔵に起臥するうち中風を発して死亡。数奇な生涯、強靭な農民的性格、率直、飄逸な性格が、作品に独特の人間臭さを与えている。編著『旅拾遺』、『父の終焉日記』、『三韓人』、『七番日記』、『おらが春』など。 |
秋元8代目の助三郎の祝言に際して新築されたと伝えられる書院を、当地に曳家したもの。今回の解体修理で建築当初の姿に復元しました。 「奥の間」中の間」「お茶の間」と東西南北にまわる縁側からなります。奥の間には、床の間・付書院が設けられ、本格的書院造りとなっています。3室は並列しているので、句会などのほか、大人数の集会にも利用できます。 |
付書院 |
廊下側に張り出した形式の書院。腰高の位置に膳板を置き4枚の小障子があります。これに対して膳板が無く小障子4枚を柱の間に建てる形式を平書院とします。いずれも明かり床と称する地方もあります。 |
文化元年(1804)9月2日小林一茶が流山で詠んだ句。 旧暦9月の作。この頃雨が多く、流山はとうとう洪水に見舞われた。家も木立も押し流されんばかりに荒れ狂った洪水が、夕方には漸くおさまり、空には淡い夕月がかかっている。どこかの物陰で、生き残りのきりぎりすが鳴き始めた。 この句は、句碑を建立するにあたって、小林一茶寄寓の地保存整備審議会が選定したものである。 書体は、文化句帖の所蔵者、新潟県新井市の入村 公氏のご承諾を得て、同句帖から採った。 石材は、一茶記念館長 清水 哲氏の協力により、一茶が生まれ育った長野県上水内郡信濃町柏原の黒姫山のものを用いた。 なお、句碑は柏原から見守られる方向に建っている。 |
流山本町は、明治~大正期における有数の事業家であり、菱田春草ら多くの芸術家を支援し、自らも俳句・文学・写真等の芸術・ 文化活動に優れた才能を発揮した秋元洒汀のゆかりの地です。 「杜のアトリエ黎明」は、洒汀の長女である画家で歌人の秋元松子と、その夫である洋画家の笹岡了一が、戦後間もない頃から、創作活動とともに後進の指導にあたった、流山の美術運動発祥の地と呼ぶべき歴史的な場所です。 昭和21年、戦地から生還を果たした了一は、松子と流山に居を構え画壇に復帰、二人三脚で中央へ発進します。二人は、評論家・柳亮の主宰するJAN絵画研究所「黎明会」に参加します。会派を超えた人々が参加し研鑽を積む「黎明会」の運動を千葉県でも発展させようと、昭和32年、二人は自宅の杜にアトリエを建て「L(黎明)・T(千葉)・S(笹岡)笹岡絵画研究所」を開設、後進の指導にあたりました。ここから巣だった多くの人材は、千葉県内をはじめ各地で活躍しています。 遺族である秋元由美子氏から、この場所を社会教育に役立てて欲しいと寄贈を受けた流山市では、笹岡・秋元了画伯の業績に鑑み、遺族の意思を活かして整備、2001年10月10日「森のアトリエ黎明」を開館しました。 |
所在地=〒270-0164 千葉県流山市流山6-562-2 TEL/FAX= 04-7150-5750 観覧時間= 9:00~17:00 休館日=月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始(12/29~1/3) 入館料金・庭園:無料 ※ 催し物により有料もあり 無料駐車場=あり |
*電車:JR武蔵野線・つくばエクスプレス『南流山』駅より徒歩25分 *バス:「南流山」駅より東武バス流山おおたかの森駅西口行又は .クリーンセンター行『平和台駅前』下車 徒歩10分 *「南流山」駅より京成バス江戸川台駅行『流山五丁目』下車徒歩5分 *京成バス「流山おおたかの森」駅西口~流山市役所(平和台入口)~ . 流山おおたかの森駅 循環 『平和台駅入口』下車徒歩3分 *電車:流鉄流山線『平和台』駅より徒歩8分 |
秋元洒汀(五世秋元平八)が、明治40年(1907)頃、奈良東大寺三月堂の校倉を模して、流山の宮大工に造らせた建物。面取りした三角材の校木を井桁に組み上げた校倉造りの建物であることから、通称、校倉(あぜくら)と呼んだ。 秋元平八家 宝物殿としての役割であったが、中に板碑が納められていることから、塔宇としての意味合いも強い。板碑には宝珠山箸蔵寺(四国別格霊場第15番札所)の銘があり、家内安全を祈願したものである。箸蔵寺は古くより「こんぴら奥の院」として、箸にたとえて人々を救済する「箸供養」などで全国的に有名であり、「ぼけ封じ」の寺としても知られる。 扉の内側には、京都の日本画家 三宅呉暁が描いた梅と菊で鮮やかに彩られていたが、永年の風化により退色している。 建立当時は、周りに垣を巡らし旧母屋に隣接していたが、戦後、笹岡良一・秋元松子が、秋元邸と庭造りのために移設し整備した。 また、戦時中、屋根のこけらを物資供出したため、その姿はしばらく風雪に晒されていた。 二人は洒汀の慈愛と雅の精神を偲び、昭和55年(1980)、屋根を改修し、現在の形に整え、洒汀の生涯の業績を顕彰した。 (由) |
ギャラリーカフェテラス 酷暑日の日曜日の午後でした。 掲載が前後しましたが、この後、 流山、森の美術館に向かいました。 ************************* お気づきのこと等がございましたら ご一報ください。→:こちら! ************************* |
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