n022-2  赤坂 氷川神社
東京都(Tokyo)
13/05/04 Sat. 


お気に召さないときは止めてください。

♪「愛の夢」リスト
ピアノ バージョンです♪

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赤坂 氷川神社




赤坂 氷川神社
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〒102-0071
東京都港区赤坂6-10-12
社格等:准勅祭社・府社
創建:伝・天歴5年(951)
主な神事:四号稲荷際、末広稲荷際、
西行稲荷際、型代流し神事他
Tel:03-3583-1935
*
アクセス:地下鉄千代田線「赤坂駅」より徒歩6分
地下鉄南北線「六本木一丁目駅」より徒歩5分
地下鉄日比谷線・都営大江戸線「六本木駅」より徒歩6分

公式サイト







手水舎








桜門

御祭神
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
大己貴命(おおなむぢのみこと)
由緒
天歴5年(951)蓮林僧正が霊夢を見て、現在の赤坂4丁目のあたりに奉斎したと伝えられる。
享保15年(1730)、江戸幕府代8代将軍徳川吉宗の命により、現在地に遷された。現在の社殿はこの時に造営されたもので、東京都の有形文化財に指定されている。麻布氷川神社、渋谷氷川神社、簸川(ひかわ)神社などとともに江戸七氷川に数えられ、その筆頭とされる。
明治元年(1868)准勅祭社に列する。
-赤坂氷川神社 公式サイトより引用しました。-






参拝の作法
1.入口の鳥居をくぐる前に会釈をし、気持ちを引き締めてから境内に入ります。
2.下水舎の水で心身を清めます。これを「手水をとる」と言います。
*手水をとる方法(ひしゃく1杯の水でア~オまでします)
ア.右手でひしゃくを持ち、水を汲んで左手にかけ左手を清めます。
イ、次にひしゃくを左手に持ち替えて、同じように右手を清めます。
ウ、再びひしゃくを右手に持ち、左の手のひらに水を受けて口をすすぎます。

エ、口をすすぎ終えたら、もう一度左手に流します。
オ、最後に水の入ったひしゃくを立て、柄に水を流して伏せて置きます。

3.参道を通って神前へ進みます。
4.お賽銭箱の前に立ち会釈をし、神さまに捧げる真心のしるしとして、賽銭箱にお賽銭を縁からそっと入れます。
5.二拝二拍手一拝の作法で拝礼し、会釈をしてから退きます。
*二拝二拍手一拝
イ、深いお辞儀を二回します。〈二拝〉
ロ、両手を胸の高さで合わせ、拍手を二回打ちます。〈二拍手〉
ハ、両手をきちんとあわせながら心を込めて祈ります。
ニ、両手を下し最後にもう一度深いお辞儀をします。〈一拝〉








お札授与所







東京都指定有形文化財(建造物)
赤坂 氷川神社社殿
 この社殿は、本殿・幣殿・拝殿の三つの建物が一体となった、いわゆる権現造の形式です。
 江戸幕府の第八代将軍である徳川吉宗によって享保15年(1730)に建てられました。吉宗は「享保の改革」と呼ばれる倹約政策をとったことで有名で、社殿にも当時の質実簡素な気風を見ることが出来ます。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたり、彫刻や彩色などで飾りたてたりするのですが、この社殿の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。しかしただ質素なだけではなく、大きな雲形組物や吹寄せ垂木など軽快な意匠を取り入れる工夫も見られます。また全体は朱漆塗としながら、部分的に黒漆塗や黒色金具を用いることで引き締まった印象となっています。
 平成22年3月 建設          東京都教育委員会
-プレートより-





新撰東京名所図会(明治22年)には以下のように書かれています。
「氷川神社は、氷川町52番地に鎮座する府社で、赤坂区第1の鎮守社です。同町中央窪地より西に向い、石畳をを踏み進めば、高燥の丘があり、是れが即ち神苑です。ふもとに花崗石のたまがきがあり、右に四合稲荷の小さいほこらがあります。

石段に上る所に、左右2基の石灯籠があります、享保9年閏4月氏子が奉納したものです。石段を33段上ると、そこにも石畳と狛犬が左右にいます。45歩あるくと、花崗石の鳥居がそびえ、氷川大明神の5字が読み取れます。尚、鍵の手形の石畳を右に進み、鳥居をくぐり左に水屋を見て中門を入ると社前に達します。

拝殿は、銅瓦葺、障泥博風、桝組、向拝付勾欄造、惣朱塗上蔀です。本殿、幣殿其の後にある青すだれを半分巻き、神鏡は長い時間輝き、神霊灼にかしこみ、お参りする人は思わず頭を垂れました。」
港区の文化財・大13集」より

-HPより引用-
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由緒・沿革
 創立の起源は、古い書物によると、天歴5年(村上天皇951)武州豊島郡人次ヶ原(俗称・・・風呂故ヶ岡・赤坂4丁目一ツ木台地)に祀られました。
これよりおよそ100年後の治歴2年(御冷泉天皇1066)、関東に大かんばつが発生、降雨を祈るとそのしるしがあり、以来よく祭事が行われました。

 江戸時代、幕府の尊信は篤く、八代将軍 徳川吉宗公が享保元年(1716)将軍職を継ぐに至り、同14年(1729)に老中岡崎城主水野忠之に命じ、現在地(豊島郡赤坂今井台)に現社殿を造営、翌15年(1730)4月26日に、一ツ木台地から現在地への遷宮が行われ、28日に将軍直々の御参拝がありました。
 以後十四代家茂公まで歴代の朱印状(※港区文化財)を下附され、一層の御神徳を高め、開運・厄除・良縁の鎮守神として尊崇を深められました。
-赤坂氷川神社 公式サイトより引用しました。-






御神徳
素戔嗚尊(すさのおのみこと)は、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)の弟神で、ヤマタノオロチを退治したことで有名です。勇猛果敢にして優しい性格により、災厄を払いのける「厄除」、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)と結ばれたことで「良縁・縁結び」「家内完全」の御神徳ありとされています。
大己貴命は、別名「大国主命(おおくにぬしのみこと)」で「商売繁盛」の御神徳があるといわれています。
-赤坂氷川神社 公式サイトより引用しました。-






包丁塚




東京都港区指定文化財
天然記念物 赤坂 氷川神社のイチョウ
 目通り(地上1.5メートルの高さ)の幹径約2.4m、幹周約7.5mを測る推定樹齢400年の巨樹である。
 赤坂 氷川神社の記録をはじめ記載された資料はないが、神社が現在の地に建立された享保15年(1760)にはすでに100年を超える樹齢を有していら。こととなり、それ以前からこの地で生育していたと考えられる。
 イチョウは、生きた化石とも言われ、1億5千万年前には地球上のいたるところで生い茂っていた。氷河期に絶滅しかけたが、中国大陸南東部に残っていたものが、日本に渡ってきたといわれる。落葉性の大木で成長も早く、高さ30mにも成長する。雌雄異株であり、この木は雄株である。
 港区内に現存するイチョウでは最大である善福寺「逆さイチョウ」(国指定天然記念物)に次ぐ大きさと樹齢を保っている貴重な樹木である。
 平成6年9月27日    東京都港区教育委員会
-プレートより-






桜門





各地の氷川神社との関係

 各地に「氷川神社」がありますが、どのような関係があるのでしょうか?
 神社本庁のデータによると、「氷川」の名の付く神社は全国で261社あり、内訳は―埼玉県に162社、東京都に68社、福井県に12社、福島県に5社、茨城県・栃木県・神奈川県・山梨県・島根県にそれぞれ2社、北海道・千葉県・長崎県・鹿児島県にそれぞれ1社となっており、関東を中心に鎮座、荒川流域に多く分布しています。
 氷川神社の本社は埼玉県の大宮に鎮座する旧官幣大社・武蔵国一ノ宮の氷川神社で、ここから御霊(みたま)を分け(ご分霊)、各地に氷川神社が祀られました。そのため原則どこの氷川神社もご祭神は同じです。
 出雲の氏族であった武蔵氏が武蔵国造(くにのみやつこ)となって移住した時期、氷川の信仰が広く祀られたといわれています。「氷川」の名は、出雲の簸川(ひかわ・現在の斐伊川)の名に因むものといわれ、農業用水として大きな恩恵を受ける一方、水害にも悩まされた荒川を簸川に見立て、畏敬の念をもって信仰していたと考えられます。





 河川に沿って分布している関東の神社としては、他に香取神社・久伊豆神社があります。それぞれ元荒川・利根川という大河川に沿って、お互いに境界を侵すことなく祀られています。氷川神社が祀られた村々はその成立が比較的古く、多くは関東ローム層の丘陵地帯に位置し、森林を開墾し谷の湿地を水田とした農村であり、久伊豆神社は元荒川、香取神社は利根川に沿って分布しますが、この地域は十世紀以降開拓された米作地帯で、度々洪水にみまわれた低湿地であると推定されているようです。
-赤坂氷川神社 公式サイトより引用しました。-







稲荷




所在地:港区赤坂6-10-19 赤坂 氷川神社他
標識:昭和18年3月16日
指定:昭和30年3月28日
※浅野土佐守は忠臣蔵・浅野内匠頭の夫人 瑤泉院の実家です。


東京都指定旧跡
 浅野土佐守(あさのとさのかみ)邸跡
 元禄の頃、この地は備後国三次藩浅野家の下屋敷でした。
三次藩は、寛永9年(1632)に安芸の国広島藩から五万石を分地され立てられた支藩です。初代藩主は、安芸国広島藩二代藩主光晟の庶兄因幡守長治で、娘には、播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩の正室となった阿久里(阿久理、阿久利とも)が居ます。
 元禄14年(1701)3月14日、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を切りつけた元禄赤穂事件が起きました。長矩は即日切腹を命じられ、、領地没収の上、家は断絶となりました。そのため、長矩の正室阿久里は出家し瑤泉院と称し、生家である三次浅野家に引き取られました。以後、正徳4年(1714)に死去するまで、ここに幽居しました。この事件が起こった時、藩主が土佐守を称した三代藩主長澄であったことから「浅野土佐守邸跡」として標識されました。
 三次浅野家はその後、四代藩主、五代藩主ともに早逝したため享保3年(1718)に断絶となり、遺領は広島藩へ幹部されます。享保15年(1730)、現在の赤坂4丁目からこの地へ氷川神社が遷宮され、今日に至っています。
平成25年3月建設     東京都教育委員会






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No.n022-2 赤坂氷川神社
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◆素戔嗚尊(すさのおのみこと)Susanoonomikoto
◆奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)大己貴命(おおなむじのみこと)
◆「良縁・縁結び」「家内安全」「商売繁昌」
◆浅野土佐守邸跡
◇神社、寺、教会 

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