|
本所松坂町公園 由来
この公園は「忠臣蔵」で広く知られる赤穂浪士の討ち入りがあった、吉良上野介吉央(きらこうずけのすけよしなか)の上屋敷跡です。
その昔、吉良邸は松坂町1、2丁目(現両国2,3丁目)のうち約8,400平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が立ち並び、今ではその面影もありません。
昭和9年3月地元町会の有志が、遺跡を後世に伝えようと旧邸跡の一画を購入し史蹟公園として、東京市に寄付したもので、昭和25年9月墨田区に移管されました。
周囲の石壁は江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠壁(なまこかべ)長屋門を模した造りで、園内には元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷社などをしのばせています。また内部の壁面には義士関係の記録や絵画が銅板で展示されています。 -墨田区-
|
|
|
赤穂義士遺跡 吉良邸跡
|
|
住所:墨田区両国3丁目13番9号
面積:約98㎡
休園日:年中無休
入場料:無料
専用駐車場:なし |
|
|
松坂稲荷大明神
由来
「松坂稲荷」は「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したものです、「兼春稲荷」は徳川氏入国後、現今の社地たる松坂方面に御竹蔵を置かれし当時、その水門内に鎮座せしもので元禄15年の赤穂浪士討ち入り後、吉良邸跡へ地所清めのために遷官され、昭和10年に既存の「上野稲荷」と合祀され、当本所松坂町公園と共に当初遷座されました。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
吉良家家臣20士の俗名碑
|
|
忠臣蔵
吉良邸跡
吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西73間、南北35間で、面積は2,550坪(約8,400㎡)だったとされています。
吉良上野介が隠居したのは元禄14年(1701)3月の刃傷事件の数か月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、代わりにこの本所二ツ目に屋敷を与えています。
現在、吉良家邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の86分の1の大きさに過ぎません。この公園内には、吉良上野介座像、邸内見取り図、土地寄贈者リストなどの他、吉良上野介を祀った稲荷神社が残されています。 |
|
|
元禄15年(1702)12月14日、寅の刻(午前4時)の七つ鐘を聞いた後、正門から大石内蔵助以下23名が用意した梯子で邸内に侵入して、内側から門を開け、「浅野内匠家来口上」を玄関前に打ち立てて乱入しました。
赤穂浪士は正門、裏門の二手に分かれて討ち入り、大声を上げながら、百人以上の大勢が討ち入ったように装いました。これに動揺した吉良家家臣の多くが外に飛び出そうとしました。しかし、弓の名手、早水藤左衛門んらが侍長屋の戸板に向かって次々と矢を射掛けて威嚇し、出口を固められたため、飛び出すこともできず戦闘不能になったといわれています。 |
|
|
松坂稲荷大明神
|
|
|
飯澄稲荷
|
|
吉良邸を出ると「飯澄稲荷」という小さなお稲荷さんが目の前にあります。
説明パネルによると「鏡師 中島伊勢住居跡」でした。中島伊勢は、葛飾北斎(1760~1849)の養父です。 |
|