n120 緒方洪庵旧宅及び塾
大阪府(Osaka)
2015/05/04 Mon. 

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緒方洪庵旧宅及び塾






大阪大学 適塾記念センター
緒方洪庵の旧宅があるのを知り、訪ねました。

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n120 緒方洪庵旧宅及び塾
n120 Ogata Koan old house & cramming school

Oosaka-Fu /Beautiful Japan
Photo26pieces/GreenSeason
♪=ソラス
◆適塾を主宰
◆ 適塾の門下生には、橋本左内、大村益次郎、福沢諭吉、長與専斎、佐野常民、高松凌雲など
◆大坂大学適塾記念センター
◆徳の教育
◇記念館
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天保9(1838)年、緒方洪庵は瓦町に蘭学塾を開きました。
その後、弘化2(1845)年過書町(現在地・大阪市中央区
北浜3丁目)の商家を購入し、移転しました。
適塾は正式には適々斎塾といい、緒方洪庵の号である
「適々斎」がその名の由来だそうです。 適塾の門下生には
橋本左内、大村益次郎、福沢諭吉、長與専斎、佐野常民、
高松凌雲など幕末、明治にかけて活躍した偉人達がいました。

現在は大阪大学適塾記念会が管理し、一般公開されています。
資料の接写はできませんが、それ以外は撮影できました。









〒541-0041
大阪市中央区北浜3丁目3-8
開館時間:10:00〜16:00
休館日:月曜日(祝翌日)年末年始(12/28〜1/4)
.     国民の祝日の翌日 ※土・日・祝日の場合は開館
参観料:一般=260円、高・大生=140円、中学生以下=無料
アクセス:地下鉄・御堂筋線、『淀屋橋』下車徒歩5分
          京阪電車『淀屋橋』『北浜』下車徒歩5分








洪庵(1810〜1863)は岡山の人で17歳で来阪、中天游に学びました。天保9年(1838)洋学を志す者のために、自宅に適塾を開き、1階の奥が洪庵の家族の住居で、2階は塾生が起居していました。
洪庵は、大坂で最初の種痘を実施するなど医学者としても活躍しました。












室内に飾られていた写真







緒方洪庵(1810-1863)

無償の愛をもって生きた人
 人がこの世に生きるとき、無償の愛をもって、世のため人のためにつくした人の人生ほど美しいものはありません。江戸末期に生きた緒方洪庵という人は、まさにそのような人でした。
 洪庵は医者でした。あふれるほどの才能をもちながら、名を求めず、利欲に惑わされず、ただひたすらに医者として他人を救うことだけを考えて生きた人でした。病気の人をみるとかわいそうでいられなくなり、たとえその人が貧しかろうと金持ちであろうと、いっさい分け隔てなく治療しました。
 それゆえに、自分自身と弟子たちへの戒めとして抄訳したドイツのフーフェランドの『扶氏医戒之略』(ふしいかいのりゃく)には、こう書いてあります。現代語で要約しますs。
 1、医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。決して有名になろうと思うな。また利益を追おうとするな。ただただ自分を捨てて、他人を救うためにだけ生きろ。
 1、病人に対しては、だだ病気を診ろ。貴賎貧富を問うてはならない。身分が高かろうが低かろうが、金持ちであろうが貧乏人であろうが、そうしたことは考えるな。
 1、医者は世間の人に愛される人でなければならない。いかに学術が優れていようとも、言行が厳格であっても、世間の人に信用がなければならない。医者は病人の秘密を知りうる職業なので、その行動は篤実温厚を旨とし、決して他人に話してはならない。と、まことに気高く厳しい。
"医は仁術"との言葉があるように、洪庵は医者たる者の心得を、儒教でいうところの「仁」、キリスト教でいうところの『愛』の精神で務めることを本文としたのです。すなわちその根本は「やさしさ」「おもいやり」ということです。
参考HPこちら









中庭








洪庵が教えた"徳の教育"とは
 その塾で洪庵が教えていたものは、専門の医術やオランダ語はもちろんですが、なによりも重視していたのは「心の教育」でした。人が人として生きる上でもっとも大切な"徳の教育"を人格形成の根本として教えたのです。それはいかに技術としての医療がすぐれていても、それを施すのは生身の人間だったからです。だからこそ洪庵は医者たる者の心得として、その第一に利害損得をはなれて、「他者を救うために生きろ」と言い切ったのである。















ウインドウの中には、薬を造るための道具が
展示されています。









井戸・土間







2F 適塾

この部屋の畳1畳が生徒一人の
寝起きする領分だったそうです。







2F 適塾








2F 適塾









二階の窓から見下ろして・・








資料室








2F 適塾
 この塾ではいっさいが平等で、武士の子も町人、農民の子もいました。先生は洪庵一人でしたが、不思議にも大盛況でした。それは洪庵の医者としての技術が優れていたこともありますが、それよりむしろ先の訓戒でみたように、まれにみる人徳者としての評判が高かったからである。
 「適塾」では、一番できる年長の生徒が、「塾頭」と呼ばれ、その塾頭を中心に等級の自冶組織をつくり、よくできる生徒ができない生徒をマン・ツウ・マンで教える等システムになっていた。塾生は常時四、五十人が寄宿していたが、洪庵は最上級クラスの生徒五、六人だけを教えたので、生徒たちはその席を求めて切磋琢磨した。洪庵の教授を受けなければ塾にきた意味がなかったからである。







2F 適塾

写真右下の「←出口」は急こう配の階段です。







1F

余談ですが、どんな服を着て生活していたのかが
興味津々です。和服でこの急こう配の上り下り
若い塾生でも大変だったのでは。。と思いました。





















たくさんの展示品、展示資料がありました。
接写不可のため詳細説明が出来ませんが
俯瞰写真を撮らせて頂けたことに感謝します。
洪庵さんというお名前、お姿が、怖そうで近寄り
がたい気がしましたが、知れば知るほど
今の日本に居て欲しい方だと思いました。




屋外





隣接した庭園














今までは、名前を聞いたことがあるくらいでしたが、
洪庵について調べて行くうちに、
身近に感じるようになりました。



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お気づきのこと等がございましたら
ご一報ください。→:
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説明文は、ウィキペディア、HP、展示パネル、冊子、購入資料より引用。


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今日もお出で頂きありがとうございました。
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