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No.m163 湯島天満宮と梅まつり
No.m163 Yushima-tenmangu & plum festival
Tokyo-To /Beautiful Japan
Photo30pieces/GreenSeason
♪=悲愴
◆梅まつり
◆新派碑、講談高座碑
◆撫で牛
◆御祭神:天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)
◆菅原道真公(すがわらみちざねこう)
◇天満宮、梅、
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唐門 |
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唐門の牛のレリーフ
湯島天満宮
インフォメーション
所在地:〒113-0034 東京都文京区湯島3−30−1
御祭神:天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)
. 菅原道真公(すがわらみちざねこう)
湯島天神は 雄略天皇二年(458)一月 勅命により創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斎したのがはじまりで、降って正平十年(1355)二月郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀し、文明10年(1478)十月に、太田道灌これを再建し、天正十八年(1590)徳川家康公が江戸城に入るに及び、特に当社を崇敬すること篤く、翌十九年十一月豊島郡湯島郷に朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉りました。
その後、学者・文人の参拝もたえることなく続き、林道春・松永尺五・堀杏庵・僧堯恵・新井白石などの名が見えます。将軍徳川綱吉公が湯島聖堂を昌平坂に移すにおよび、この地を久しく文教の中心としていよいよ湯島天満宮を崇敬しました。
明治五年(1872)十月には郷社に列し、ついで同十八年(1885)八月府社に昇格しました。
明治維新以前は、上野東叡山寛永寺が別当を兼ね、喜見院がその職に当りました。
元禄十六年(1703)の火災で全焼したので、宝永元年(1704)将軍綱吉公は金五百両を寄進しました。。
明治十八年に改築された社殿も老朽化が進み、平成七年十二月、後世に残る総檜造りで造営されました。 |
アクセス
東京メトロ:千代田線「湯島駅」 徒歩2分
東京メトロ:銀座線「上野広小路駅」 徒歩5分
東京メトロ:丸の内線「本郷3丁目駅」 徒歩10分
JR:山手線・京浜東北線「御徒町駅」 徒歩8分
都営地下鉄:大江戸線「甥の御徒町駅」 徒歩5分 |
白梅 境内の梅園で「梅まつり」が開催されています。
梅の花たちが、元気に長い蕊をピンと立て
かわいらしく咲いています。
雨も上がったので、境内を散策しましょう。
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紅梅
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紅梅
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境内梅園
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筆塚と紅白梅
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白梅
近世の縁日は、毎月十日・二十五日で、境内とその界隈は江戸有数の盛り場で、宮芝居や植木市、各地の出開帳があり、江戸町人の憩いの場として繁盛しました。
また富突は、今日の宝くじに当たり、谷中感応寺・目黒不動とともに江戸三富と称して代表的なものでした。文化九年には(1812)湯島天神は目黒不動とともに公許され、境内は熱狂した群集でわきかえったそうです。
泉鏡花の「婦系図」の舞台として演劇に映画に歌謡曲に「湯島の白梅」の名を有名にしました。
江戸期から明治にかけて、例年七月二十六日夜の拝月は、遠近の老若男女が群集して雑踏を極め、また二月十日の祭礼には、砥餅(ともち)と号し砥石の形に作ったお餅を神供に備え、氏子へも同様のお餅を配りました。
境内には売薬香具見世・楊弓場があり、宮芝居が数度行われています。また文政七年(1824)正月境内で大相撲本場所も行われました。 |
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白梅
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メジロと白梅
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白梅
湯島境内は、広重の「江戸百景」などの画題となり、湯島十景、また武州洲学十二景に「南隣菅祠」と題されています。
古く文明十九年(1478)堯恵法師の「北国紀行」には当時の風致をたたえています。
天正十九年(1591)十一月、徳川家康公は湯島郷の内御朱印五石を社有として寄進しました。 |
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社務所と本殿を繋ぐ廊下
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絵馬
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撫で牛
天神さまと牛とは切っても切れないものがあり、古くより様々な縁起・伝承を見ることが出来ます。
その一つには「菅家聖廟略伝」には、菅公自ら遺言をされ、「自分の遺骸を牛にのせて人にひかせずに、その牛の行くところにとどめよ」とあり、その牛は、黙々と東に歩いて安楽寺四堂のほとりで動かなくなり、そこを御墓所と定めた、と書かれているそうです。 |
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手水舎
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本殿と両サイドの露店
この日はどのお店も休業のようです。
前日の日曜日には「梅まつり」で賑わったことでしょう。
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三天 火伏三社稲荷社
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椿
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「新派」碑由来
この「新派」の記念碑は、新派劇創立90年を迎えた昭和52年10月1日松竹株式会社と水谷八重子氏により新橋演舞場玄関脇に建てられました。新派の始まりは、明治21年12月自由党壮士角藤定憲が同志を集め大阪の新町座で「大日本壮士改良演劇会」の旗揚げをしたのが起源とされています。風雪激しい90年ではありましたが、今日「劇団新派」として隆盛を見ましたその先人たちの労苦を偲び併せて今後の精進を誓うべく記念碑の建立を見た次第です。
そして新橋演舞場の改築にあたり当湯島天神様のご好意により新派とは深い縁で結ばれております当天神様のご境内に移させていただいたものです。
なお碑の題字は作家の川口松太郎氏の揮毫により設計は舞台観術化の中嶋八郎氏です。左側の梅樹は昭和31年新派の名優故花柳章太郎しの献木によるもので、奇しくも記念碑と献木が同じこの場所に並んだ次第です。
昭和54年4月26日 -パネルより-
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瓦斯灯
湯島天神社境内
この境内には、もと瓦斯灯が5基あったが、そのうち形だけ残っていた男坂上の最後の1基は、昭和40年撤去された。
ガス街灯は、明治5年(1872)開港地横浜に点灯されたのが最初で、東京には同7年金杉橋・京橋に85基が設置された。
ガス灯は、文明開化のシンボルで、明治の時代を象徴するものであった。
今、ここに、東京ガス株式会社の協力を得て、ガス灯を設け点灯することになったが、これは都内で、屋外のものとしては唯一のものである。
昭和56年11月2日 文京区観光協会 |
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男坂
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講談高座碑
江戸時代中期までの講談は 町の辻々に立っての辻講釈や 粗末な小屋で聴衆と同じ高さで演じられていた 文化四年(1804年)湯島天満宮の境内に住み そこを席場としていた講談師伊東燕晋が 家康公の偉業を読むにあたり庶民と同じ高さでは恐れ多いことを理由に高さ三尺 一間四面の高座常設を北町奉行 小田切土佐守に願い出て許された これが高座の始まりであり 当宮の境内こそ我が国伝統話芸 講談高座発祥の地である 平成十七年十一月吉日 六代目 一龍齋貞水 建立
発起人代表:文京区 区長 煙山 力
湯島天満宮宮司 押見守康 -碑文より- |
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女坂
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湯島天神 本殿 (平成7年造営)
新社殿は、ご本殿と、参拝する人のための拝殿が幣殿で結ばれている「権現造り」の建築様式で、日本古来の「木の文化」を象徴する純木造です。
現在の建築基準法では、たとえ社寺建築であろうと防火地域では新たに木造建築は認められていませんが、万全の防災設備をととのえ、(財)防災性能評定委員会の一年近い慎重審議を経て、建設大臣認定第一号として特に木造建築が許可されました。建材は、営林署と木曽木材組合の全面的な協力を得て、樹齢二百五十年といわれる木曽檜を使用しています。 |
HPを参考
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授与所の吊り灯籠
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夫婦坂
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神殿
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境内
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