n164 港区 三田台公園付近散策
東京都(Tokyo-To)

2016/02/22 Mon.  


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お気に召さないときは止めてください。

♪「アルルの女」ビゼー
ピアノ  バージョンです♪

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済海寺、港区立 亀塚公園、三田台公園 散策

↑ ローズマリーはこちらに咲いていました。



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No.n164 三田台公園散策他
No.n164 Mitadai park & others Walk.

Tokyo-To /Beautiful Japan
Phot26pieces/GreenSeason
♪=アルルの女
◆最初のフランス公使宿館跡、済海寺
◆皇族 華頂宮邸跡地
◆三田台公園、亀塚公園
◆竪穴式住居
◆紅梅、白梅
◇境内の花壇、寺院、
出かけませんか?CandyBox
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東京都指定旧跡
最初のフランス公使宿館跡
史跡指定:昭和28年11月3日
旧跡指定:昭和30年3月28日

済海寺 インフォメーション
〜*〜*〜*〜
所在地:港区三田4〜16〜23
山号:周光山
崇派:浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
創建:1621年(元和7年)

アクセス
都営地下鉄 浅草線・三田線 「三田駅」より徒歩10分
〜*〜*〜*〜
黄色いお花と梅、手水鉢のカラーは
こちらで切り撮りました。







港区にある済海寺に立ち寄り、撮ったお花です。
立札によると
ここは最初のフランス公使宿館跡です。
済海寺には、安政5年(1858)に締結された
日仏修好通商条約により、翌6年8月12日に
フランス公使館が設置されました。
初代駐日公使ド・ベルクール(着任時は総領事)が
ここに駐在しました。◆に続く

お花たちに夢中で、本堂を撮りはぐれました。
恐縮ですが、よかったら、お付き合いください。








 ◆より続く  公使館としては書院、庫裏の全部、慶応2年(1866)12月に玄関、門、門番所などが増設され、明治3年(1870)4月10日に公使館が引き払われるまで使用されました。
 再開時は明治年間に敷地が分割され、かつてのフランス公使館の敷地は、現在の済海寺本堂敷地とその西隣の地域となります。
    平成24年3月建設     -東京都教育委員会-







手水鉢とカラー








白梅








クリスマスローズ








パンジー





パンジーと紅梅は
こちらで切り撮りました。





港区立亀塚公園




キンセンカ

港区立亀塚公園

インフォメーション
所在地:東京都港区三田4丁目16番20号
アクセスは隣り合う済海寺を参照してください。
公園の歴史
江戸時代は上野沼田藩土岐伊勢守、下屋敷で明治維新後は皇族 華頂宮(かちょうのみや)家が日本橋浜町の元諏訪藩邸跡から本所に移る。
大正13年同宮家断絶後は一時期内大臣邸となったが昭和8年建物は壊され、昭和20年には空襲により庭園は破壊される。
その後公園として整備され昭和27年11月3日港区立亀塚公園として開園する
















梅の花が可愛らしく咲き、見頃を迎えていました。



















公園内で数人の人たちが、何かの写真撮影をされていたので
邪魔にならぬよう、三田台公園に移動しました。





三田台公園




三田台公園

所在地:東京都港区三田4-17-28

敷地は亀塚公園と同様に、
華頂宮(かちょうのみや)邸、旧庭園の一部です。
特徴は、竪穴式住居のレプリカや伊皿子貝塚の
貝層断面が展示されています。
そして、梅の花も咲いていました。









梅の花に気をとられ、
公園の情報写真が少ないことに
反省しています。








竪穴式住居跡








レプリカ 竪穴式住居

中を覗いてみましょう。








生活ぶりが見学できました。








住宅内は思ったより広いです。
















 山野にけものを追い、海辺に魚や貝を求めて縄文時代の人々は日を送っていました。この時代の人々はまだ米を作ることを知らず、自然が与えてくれるさまざまな恵みによって生活を支えていたのです。そんな暮らしが今から1万年くらい前から、米作りの始まる2000年前までの8000年間続きました。
 人々の力はまだ弱く、自然の中で生きていくには多くの人々がお互いに協力する必要がありました。狩りをするのも、家を建てるのにも村の多くの人々の参加が必要でした。 
ここに復元されている竪穴住居は、今から4000年前の縄文時代後期のもので、伊皿子貝塚の貝層の下から発見されました。地面を掘りくぼめたり、柱にするための木を伐るには、村の男が総出でかかったことでしょう。屋根をふいたり、床に小石を敷き詰めたりする作業もありました。この住居からは、当時の生活のあり様だけでなく、人々がいかに助け合いながら生きてきたかを知ることが出来ます。








 米を作り始めてしばらくすると、人の上に立つ身分の高い貴族があらわれ、多くの人々を使って大きな塚(古墳)を作り、死んだあとの墓にしました。この時代を古墳時代と呼びます。米作りの始まった弥生時代に続く、今から1700年前から約300年余りをいいます。 その終わりごろには中国から仏教も伝わり、文化も大いに進みました。しかし、当時の農民の多くはここにあるような縄文時代とはあまり変わらない竪穴住居に住んでいました。地面を掘りくぼめて床にしたり、壁がなく屋根と床がくっついている点などは縄文時代の住居とほとんど同じで、違うのは隅にあるかまどくらいです。
 当時の貴族は今の神社のような建物に住んで、海を越えて中国から伝わった品物を身に着けたりして文化的な生活を送って居ましたが、農民の多くは古墳時代ばかりでなく、奈良時代、平安時代になっても、ここにある竪穴住居と同じものに住んでいたのです。







伊皿子貝塚の貝層断面




梅の花が見頃でした。




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