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この壁泉は、かつてこの地にあった『黒門』の姿を表現しています。 『黒門』は寛永寺の総門です。かつては現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の境内でした。公園入り口付近には「御橋」または「三橋」と呼ばれる橋があり、寺の正面入り口となっており、その先に『黒門』がありました。 幕末の上野戦争で、最も激しい戦闘が行われたのは、黒門付近です。戦いは主として銃撃戦でした。そのため、黒門にも多くの銃弾が当たり、門にはその痕が無数に残りました。 焼け残った黒門は明治40年(1907)、東京都荒川区の円通寺に移築されました。円通寺には彰義隊の墓所があり、黒門とともに幕末の歴史を今に伝えています。 |
15代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷らは、慶応4年(1868)、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居(ちっきょ)した慶喜の助命嘆願のため同志をつのった。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦5月15日の上野戦争は、武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させた。 生き残った小川ら隊士は、明治7年(1874)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦士の墓を建立した。なお、遺骨の一部は荒川区円通寺内に合葬されている。以後、120年余りにわたり、小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されている。 |
江戸時代初期、この地は津軽、藤堂、堀家の屋敷であったが徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。寛永2年(1625)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが慶応4年(1868)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治6年1月の太政官布告により公園に指定されたことから公園地となった。 恩賜公園のいわれは、大正13年に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模・景観はもとより施設など我が国有数の都市型公園として整備された。面積62万㎡余り。 上野公園生みの親がオランダ人医師のボードワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさから公園にすべきであることを政府に進言して実現したものである。 |
清水観音堂は、寛永寺を開創した天海が京都清水寺を模して寛永8年(1631)に創建した。当初、現在地より100m余り北方の摺鉢山上にあったが、元禄7年(1694)この地へ移築し、現在に至っている。堂宇は、桁行5間、梁間4間、単層入母屋造り、本瓦葺。とくに不忍池に臨む正面の舞台造りは、江戸時代より浮世絵に描かれるなど、著名な景観である。 近年老朽化が目立ち、平成2年より全面的な解体・修復工事を実施、平成8年5月に完成した。この間、移築年代を元禄9年とする定説をくつがえす、元禄7年の棟札が発見されるなど、さまざまな事実が明らかとなっている。 本尊は千手観音座像で、京都清水寺より奉安したもの。秘仏で平常は厨子内に安置するが、毎年2月初午の日にのみ開扉され、多くの参詣者が訪れる。 脇本尊の子育観音は、子供に関するさまざまな願いを持つ人々の信仰をあつめ、願い事が成就した際には身代わりの人形を奉納する。毎年9月25日には奉納された人形を供養する行事がある。 |
短い時間でしたが、 咲き始めた早めの桜で 夜桜を楽しみました。 ************************* お気づきのこと等がございましたら ご一報ください。→:こちら! ************************* |
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