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所在地=〒373-0842 群馬県太田市細谷町 1324-7 国指定指定日=昭和6年(1931)11月26日 開館時間= 9:30~17:00(入館は16:30まで) 休館日=月曜日(祝日の場合は翌日) 料金 =個人:100円 中学生以下=無料 駐車場=記念館正面に小型車14台。大型バスは事前連絡 |
東武伊勢崎線=『細谷』駅 より徒歩約10分 . =『太田』駅前よりタクシーで10分~15分 |
高山彦九郎宅跡は現在畑となり、北側の井戸跡にその面影を残すのみです。面積は4反2畝4歩(約4180㎡)です。 この土地は、彦九郎の祖父伝左衛門貞正が、異母弟の蓮沼伊右衛門政重に家督を譲り、母方の姓である高山を名乗り分家したことに始まり、南側に彦九郎の兄専蔵の住居、北側に彦九郎の住居がありました。 遺髪塚は本家である蓮沼家をへだてた高山彦九郎記念館西側墓地内にあります。 明治25年(1893)の彦九郎百年忌にその玄孫高山守四郎により建てられたものです。 |
延享4年(1747)5月8日新田郡細谷村(現太田市)の豪農、高山彦八正教の次男として生まれ、名を正之、字を仲縄、号を赤城・金山といいました。その遠祖高山遠江守は新田義貞16騎の一人といわれています。 18歳の時、祖父宛に置き手紙を残し京都へ上り、山崎闇斎学派の儒学の門に入りました。以後数度滞在した京都では、公家や当時一流の学者・文化人等と交わり、豪商白木屋木村彦太郎邸や公卿の岩倉具選邸等に逗留しました。 |
彦九郎は反幕府的な思想を持ち、尊王を高唱し、全国の学者・諸藩士等と交わり遊説を重ねました。彦九郎はその生涯の多くを遊歴のうちに過ごしましたがその足跡は、北は津軽(青森県)宇鉄から、南は薩摩(鹿児島県)開聞岳まで及びます。またその交友関係も広く、前野良沢・頼春水(山陽の父)・藤田幽谷(東湖の父)・林子平等、多くの文人・学者等から贈られた詩文・書簡・和歌等が残っています。 寛政3年(1791)九州に入り、久留米・長崎・熊本等の滞在を経て、苦難の末、鎖国政策をとっていた薩摩へ入っています。一説によれば薩摩藩を反幕府側につかせる密令を帯びていたともいわれます。寛政5年(1793)6月27日筑後国(福岡県)久留米在住の儒医森嘉善宅で自刃しました(翌日絶命/かぞえ47歳)。その志かなわぬ故からの憤死とされます。墓は久留米市寺町の遍照院にあります。吉田松陰・高杉晋作・久坂玄璃・西郷隆盛等、幕末の尊王の志士たちに大きな影響を与えた先駆的存在です。 |
彦九郎は尊王家であっただけでなく、社会運動家であり、また旅人・歌人でした。彦九郎の旅の記録は克明な日記に残されており、大名・公家・豪商・学者・武士・農民・博徒等、あらゆる階層の人々との交流の様子から、高い教養と暖かく情熱的な人間性をうかがい知ることができます。また日記は当時の人物・社会・民俗等に関する地方史解明の貴重な資料となっています 高山彦九郎は明治政府により顕彰され、明治12年(1879)には金山南麓の天神山(太田市本町)に彦九郎を祭神として高山神社が創建されました。 戦前・戦中には、熱狂的勤王家として評価されましたが、戦後はその反動で、否定・無視される傾向続きました。 平成5年(1993)の没後200年に際して記念事業が実施され、現代的再評価が行われ、これをきっかけとして、平成8年(1996)に高山彦九郎記念館が開館しました。 |
所在地=〒 栃木県足利市旭町 2292 TEL=0284-41-3585 開館時間= 8:00~20:00/ 日・祝=10:00~20:00 休館日=月曜日(祝日の場合翌日) 駐車場=あり、10台 |
東武伊勢崎線=『東武足利市』駅北口より徒歩約5分~10分 JR・両毛線=『JR足利』駅北口より徒歩 |
2Fです 和服などが展示されていました。 ************************* お気づきのこと等がございましたら ご一報ください。→:こちら! ************************* |
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