c346 誠之堂と清風亭、尾高惇忠の生家

埼玉県(Saitama-Ken)
2024/05/11 Sat.  


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誠之堂と清風亭、尾高惇忠の生家

誠之堂


方角が漢字表記の 風見鶏



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No.c346 誠之堂と清風亭、尾高惇忠の生家
No.c346 Seishido・Seifutei, Junchu Odaka's birth house

Saitama-Ken /Beautiful Japan
Photo 33 pieces/GreenSeason
◆誠之堂
◆清風亭、佐々木勇之助
◆移築復元
◆田辺淳吉
◆西村好時
◆藍玉#尾崎惇忠
◇国指定重要文化財、埼玉県指定有形文化財、煉瓦、渋沢栄一、尾高惇忠
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誠之堂の見取図


渋沢栄一ゆかりの煉瓦建築
誠之堂・清風亭 インフォメーション

所在地=〒  埼玉県深谷市起会110-1
問合せ先=深谷市教育委員会 文化振興課 048-577-4801
見学時間=9:00~17:00(入館は46:30まで)
休館日=年末年始(12月29日~1月3日)
入場=無料
無料駐車場=あり
交通アクセス
555
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誠之堂(せいしどう)

 大正5年(1916)、渋沢栄一の喜寿(77歳)を記念して第一銀行行員たちの出資により建築されました。
 渋沢栄一は、現在の深谷市に生まれ、株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れ日本の近代経済社会の基礎を築きましたが、その拠点としたのが第一国立銀行であり、明治29年に同行が第一銀行となってからはその初代頭取を務めました。
 栄一は、喜寿を迎えるのを機に、第一銀行頭取を辞任しましたが、誠之堂の建築には栄一が同行の行員たちから深く敬愛されていたことがうかがわれます。
 「誠之堂」の命名は栄一自身によるもので、儒教の代表的な経典の一つ「中庸」の一節「誠者天之道也、誠之者人之道也(誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり)」に因んだものです。
 平成9年(1997)、取り壊しの決定に伴い深谷市が譲り受け、平成11年(1999)当地に移築、平成15年(2003)5月30日、国の重要文化財の指定を受けました。
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 設計者は、当時の建築界の第一人者であった田辺淳吉。誠之堂の設計にあたっては、条件とされた「西洋風の田舎屋」で建坪は30坪前後」を守りつつ、独自の発想を凝縮してこの建物を造り上げました。
 建築面積112㎡、煉瓦造平屋建、外観は英国農家に範をとりながらも、室内外の装飾に、中国、朝鮮、日本など東洋的な意匠をとり入れるなど、様々な要素が盛り込まれ、、それらがバランスよくまとめられています。
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ステンドグラス

 化粧の間や大広間の窓のステンドグラスは目を引きます。




天上装飾

 大広間の円筒型の漆喰天井(ヴォールト天井)は、石膏レリーフにより雲、鶴、松葉の縁、寿の文字が配され朝鮮風、一方、次之間の天井は日本的な網代天井で、数寄屋造りの様式を採り入れています。
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次之間










誠之堂

  渋沢栄一  天保11年(1840)~昭和6年(1931)
 現在の深谷血洗島に生まれる。青年の頃、尊王攘夷運動に加わったが、一橋家の家臣、平岡円四郎と出会ってからは一橋家に仕えた。第15代将軍徳川慶喜の弟である徳川昭武に随行し渡欧、約1年滞在する中で、近代の思想、文化、社会制度などをつぶさに学んだ。
 明治元年に帰国した後、大隈重信の説得により大蔵省に仕えたが、大久保利通らと財政運営で意見が対立し、辞職。以後は、株式会社制度や銀行事業、保険事業など日本の資本主義の基礎となる制度を次々と導入し、各種産業の育成に努めた。設立した企業は第一国立銀行(現・みずほ銀行)をはじめ、500余を数えた。また、社会福祉事業や国際親善にも尽力し、600以上の社会公共事業にも関わった。

  田辺淳吉(たなべ じゅんきち)
 大正時代を代表時、モダンな潮流を作り上げた建築家。帝国大学の工科大学建築学科で、東京駅を設計した辰野金吾に学び、卒業後は清水建設株式会社の前身の清水組に入社、後に独立して建築設計所を開く。
 田辺の代表作には、誠之堂のほか、王子飛鳥山の旧渋沢邸の中に現在残っている、晩香盧と青淵文庫がある。

  誠之堂(せいしどう)
 設計 田辺淳吉 面積112.30㎡  煉瓦造平屋建
 大正5年、第一銀行の創立者渋沢栄一翁の喜寿を記念して第一銀行関係者の寄付により小集会所として建設された。「誠之堂」は翁の命名で、孔子の「中庸」の誠之者、人之道也」に拠る。
 当時の多摩川電車の終点であった第一銀行付属運動場に建設された。イギリスの農家風の落ち着いた雰囲気と輪郭をもち、住宅ではないが大正前半期の住宅建築へかけた建築家の夢の実現とでもいうべき密度の高い仕事である。細部によく神経が行き届き、森谷延雄のデザインしたステンドグラスや煉瓦の肌合いなどに設計者の装飾に対する造詣の深さがしのばれる。
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大広間












ステンドグラス

 化粧の間や大広間の窓のステンドグラスは目を引きます。大広間のものの図案は、森谷延雄(もりや のぶお)によります。
 中国風の珍しい題材で、漢代の貴人と侍者、それを饗応する歌舞奏者と厨房の人物たちの像は、栄一を貴人に見立て喜寿を祝う情景と考えられています。
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 北側外部壁面には、煉瓦による朝鮮風の装飾積みで「喜寿」の文字を表しています。
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外壁

 あえて色ムラのある煉瓦を使用し変形菱型に配置することで、装飾性と変化を与えています。
 なお、解体の際に外壁、基礎の各所から「上敷免製」の刻印のある煉瓦が発見され、これらの煉瓦は、深谷市上敷免に所在した日本煉瓦製造株式会社で焼かれたものであることが確認されました。
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清風亭(せいふうてい)




清風亭

 大正15年(1926)、当時第一銀行頭取であった佐々木勇之助の古希(70歳)を記念して、誠之堂と並べて建てられました。建築資金は、誠之堂と同じくすべて第一銀行行員たちの出資によるものです。
 佐々木は、28歳の若さで第一国立銀行本店支配人就任をはじめとして、同行の数々の役員を歴任し、大正5年、栄一を継いで第一銀行第2代頭取に就任しました。勤勉精励、謹厳方正な性格で知られ、終始栄一を補佐しました。栄一の精力的な活躍も佐々木の手腕と人格によるところが大きかったと考えられます。
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清風亭の見取図

 大正15年(1926)に第一銀行2代目頭取、佐々木勇之助の古希(70歳)を記念して、現在の東京都世田谷区瀬田に在った銀行の保養施設「清和苑」内に建てられました。設計は銀行建築に活躍した西村好時、施工は清水組(現在の清水建設株式会社)が行いました。
 建築面積は 168.48㎡、棟までの高さは5.836mを測ります。構造は鉄筋コンクリート造、外観は人造石掻落し(じんぞうせきかきおとし)仕上げの白壁にスクラッチタイル(ひっかき傷をつけたタイル)と鼻黒煉瓦(黒褐色のれんが)がアクセントをつけ、屋根には瑠璃色の釉薬をかけたスパニッシュ瓦(スペイン風を模した丸瓦)が葺かれています。大正12年(1923)の関東大震災を契機に建築構造の主流となった鉄筋コンクリート造りの初期の事例として、建築史上貴重な建物です。
 平成9年(1997)取り壊しの決定に伴い深谷市が譲り受け、平成11年(1999)当地に移築、平成16年(2004)3月23日、埼玉県の有形文化財指定を受けました。
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質素なつくりの室内








窓の向こうに見える 誠之堂









清風亭

  佐々木勇之助(ささき ゆうのすけ)
 1854年江戸本所に生まれる。維新後、父の事業を手伝うが、火災に遭うなど、うまくいかず、明治政府の為替方に勤めた後、第一国立銀行が設立されると同時に同行の行員となる。第一国立銀行に入って後、渋沢栄一翁に認められ、銀行制度の指導に当たっていたお雇い外国人のシャンドの伝習生となる。
 その後、次々と設立される銀行の業務指導にもあたり、創生期にあった日本の銀行制度の第一人者であった。1905年には総支配人の地位についた。この総支配人という役職は、栄一翁が一銀行家にとどまらず、日本の財界の指導者であり、第一銀行頭取の仕事のみに専念する役職であった。事実、1916年に栄一翁が一切の役職を退き、佐々木が第一銀行の頭取に就任にしたときに、総支配人の役職は廃止された。

  西村好時(にしむら よしとき(こうじ))
 銀行建築のスペシャリストとして名を馳せた。東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し、清水組に入社、誠之堂を設計した田辺淳吉の片腕となって活躍した。
 大正9年(1920)、清水組の推薦により、銀行建築の専門家として第一銀行の技師・建築課長に抜擢され、主要な支店を次々と設計した。また、東京の三田に建てられ、現在青森県三沢の渋沢公園に移築されている旧渋沢邸も設計した。

  清風亭(せいふうてい)
 設計=西村好時 面積=168.48㎡ 鉄筋コンクリート造 平屋建 
 大正15年、当時の頭取佐々木勇之助氏の古希を記念して建設された。当初は佐々木勇之助記念館-茗香記念館-、後に清風亭と呼ばれるようになった。
 当時流行したスパニッシュスタイルで、隣の誠之堂とは対照的に明るい清楚な表現の外観。勾配が緩く軒出のない大屋根を架け、瑠璃色のスパニッシュ瓦葺とする。壁面はクリーム色のモルタル仕上げアーチの枠廻り、出入り口の額縁廻り、隅柱にスクラッチタイルを貼り、外観にメリハリをつけている。
 誠之堂と同様、広間一室を正面に配し、背面に玄関、予備室などを配し、前面にベランダを張り出す。広間は、誠之堂よりさらに簡素で地味である。中央に暖炉を配し、焚き朽ち廻りと両側の柱型にスクラッチタイルを貼る。天井は梁型を顕わとし、梁型の両側と周囲の天井蛇腹に草花文の彫刻を施す。幅木は淡色の石貼。南北両端の三連アーチ窓の下部に木製ベンチを設け、アーチ窓の窓枠やステンドグラスもパステル調の淡い色調とし、軽快でくつろいだサロン的雰囲気を創り出している。
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暖炉








清風亭

 当初、佐々木の雅号をとって「茗香記念館」等と称されましたが、後に「清風亭」と呼ばれる王になりました。
 西村自身が「南欧田園趣味」と記述している当時流行していたスペイン風の様式が採られています。









歴史と深谷市への移築

 誠之堂と清風亭は、ともに東京都世田谷区瀬田に在った第一銀行の保養・スポーツ施設「清和園」の敷地内に建てられていたものを現地に移築復元したものです。
 清和園では、当時あまり公開されることのなかった建築物でしたが、建築研究者や建築関係者の間では、いずれも日本近代建築史上、大正時代を代表する建築物として高い評価を受けていました。
 当初は、銀行関係者のための集会施設として長い期間利用されていました。
 昭和46年、清和園の敷地の過半は、聖マリア学園(セント・メリーズ・インターナショナル・スクール)に売却され、昭和50年代には、誠之堂は外国人教師の校宅として、清風亭は集会所として貸し出されました。
 建築や敷地は、銀行(当時第一勧業銀行)の所有でありましたが、平成9年、学園の施設拡充計画に伴い、これらの建物も取り壊しの危機に瀕することになりました。渋沢栄一生誕の地である深谷市は、数少ない栄一にゆかりの貴重な建物が取り壊されることを見過ごすことはできず、譲り受けに名乗りをあげ、深谷市へ移築復元することが出来ました。
 しかし、このような文化財的価値の高い建築物、特に煉瓦構造物の移築は、日本でも初めての試みであったため、深谷市では移築保存検討委員会を設置し、移築方法等の検討を重ねました。その結果。「大ばらし」を応用した日本初の工法により実施することを決定しました。これは、煉瓦壁をなるべく大きく切断して搬送し、移築先で組み直す工法です。
 平成10年2月から2年間の解体・復元工事を経て、平成11年8月に移築復元が完成しました。
 移築復元の方針として、現状維持を基本とし、後世の改変部分はできる限り創建時の姿に復旧しました。また、清和園当時から2つの異なった様式の建物が並び建っていることが一層それぞれの存在価値を引き立てていると評価されていたため、清和園での配置とほぼ同様に移築しました。
  平成11年11月、深谷市は両建物を「誠之堂・清風亭」という公の施設として設置し、現在広く市民等の見学に供しています。貴重な建築物の保存を図るとともに、地域の中に生きる文化財として活用しています。

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尾高惇忠(おだか じゅんちゅう)生家




インフォメーション

所在地=〒  埼玉県深谷市下手計 236
開館時間= 9:00~17:00
休館日=年末年始 (12月29日~1月3日)
問合せ先=渋沢栄一記念館 TEL= 048-587-1100
料金:無料
交通アクセス
JR高崎線『深谷』駅より
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藍玉、藍の種、繭玉、藍の花

藍玉(あいだま)
 藍玉とは 藍の葉を発酵・熟成させた染料である蒅(すくも)を搗(つ)き固めて固形化したものです。藍の生産地としては徳島県の阿波が最も盛んでしたが、ここ深谷市北部の利根川沿いの地域でも藍の栽培が盛んでした。利根川沿いの地域は、藍の生育に適しており、良い藍を育てる肥料として必要な〆粕や干鰯(ほしか)を、中瀬河岸場で手に入れることができました。当地でつくられた藍玉は「武州紺」と呼ばれ、衣類を鮮やかな紺色に染め上げる染料として人気がありました。
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尾高惇忠

 尾高惇忠は天保元年(1830)下手計村に生まれました。通称新五郎、諱(いみな)は惇忠、藍香(らんこう)と号しました。
 渋沢栄一の従兄(いとこ)にあたり、栄一は少年時代からこの藍香のもとに通い、論語をはじめ多くの学問を藍香に師事したことが知られています。後世、“藍香ありてこそ栄一あり”と称えられた人物で、知行合一の水戸学に精通し、栄一の人生に大きな影響を与えました。
 明治時代を迎えると、惇忠は富岡製糸場初代場長や第一国立銀行の盛岡支店長や仙台支店長などを務め、幅広く活躍しました。
  
  尾高惇忠 生家
 江戸時代後期に惇忠の曽祖父磯五郎が建てたものと伝わっています。「油屋」の屋号で呼ばれ、この地方の商家建物の趣を残す貴重な建造物です。この家で栄一の妻となった千代見立て養子となった平九郎、惇忠の娘で富岡製糸場伝習工女第一号となるゆうが育ちました。また、若き日に惇忠や栄一らが尊王攘夷思想に共鳴し、高崎城乗っ取り・横浜外国商館焼き討ちの謀議をなしたのもこの家の二階と伝わります。
 内庭の煉瓦倉庫は、「上敷免製」の刻印を残す煉瓦が周囲に残ることから日本煉瓦製造株式会社制の煉瓦で建てられたものと思われます。
 平成22年(2010)に深谷市指定文化財(史跡)となりました。
















室内の見学はできませんでした。








カマド








煉瓦土蔵前の 小祠








煉瓦土蔵

 煉瓦土蔵周辺で発見された煉瓦には「上敷免製」の刻印があり、
日本煉瓦製造株式会社の煉瓦であることがわかります。
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惇忠生家の裏側




藍の木

煉瓦土蔵前で育てられていた藍の木


急げば、渋沢栄一生家も間に合いそうです。
行ってみましょう。

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お気づきのこと等がございましたら
ご一報ください。→:こちら!
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冊子を参考にしました。


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今日もお出で頂きありがとうございました。
よろしかったら 次回もお付き合いください!


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