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No.c348 塙 保己一の里と記念館
No.c348 Hanawa Hokiichi Memorial Museum
Saitama-Ken /Beautiful Japan
Photo 31 pieces/GreenSeason
◆保己一の旧宅、国指定史跡
◆ヘレンケラーの言葉
◆巾着とお宝箱
◆群書類従
◆和学講談所
◆盲目の国学者
◇塙保己一、記念館
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塙 保己一の旧宅
昭和19年11月13日 国指定史跡
   
塙保己一は、延享3年(1746)5月5日に武蔵の国児玉郡保木野村(現本庄市児玉町保木野)に生まれました。7歳にして失明、15歳の時江戸へ出て、当道座に入門し、雨富検校の弟子になりました。
賀茂真淵らにも弟子入りし、学問の道にも進み、生来の記憶力の良さに加え、緩まぬ努力の結果、国学者として、地位を築きました。
国学の研究を進め、寛政5年(1793)に幕府に申し出て和学講談所を創立し、安永8年(1779)から41年間かけて群書類従を編さん・刊行するなど学問上多大な貢献をし、文政4年(1821)には総検校となり、この年の9月12日に78歳で亡くなりました。この旧宅は保己一が誕生し、幼児期を過ごしたものです。 |
令和2年9月吉日 埼玉県教育委員会/本庄市教育委員会
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保己一とふるさと
   
塙 保己一は延享3年(1746)5月5日、現在の埼玉県本庄市児玉町保木野で農家の子供として生まれました。そのころの日本は江戸時代でした。
江戸時代の保木野村は水田と畑が広がり、保己一が生まれた頃は養蚕も盛んでした。
50戸余りの集落のほぼ中央に、保己一の生まれた家がありました。その北側には、龍清寺があり、この御寺の境内で、子供のころ遊びました。
保己一は子どもの頃は寅之助という名前でしたが、体が弱く、5歳の時に肝の病にかかり、それがもとで目を患い、7歳の時に失明してしまいました。
失明してからの保己一は、本を読んでもらったり、手に文字を書いてもらい字を覚えました。記憶力が良く、読んでもらった書物は一字一句記憶していたともいわれています。
保己一が12歳の時、母親が亡くなりました。そして、15歳の時に、自分で生活するために江戸(今の東京)に出ました。 |
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塙 保己一旧宅(国指定史跡)
   
| この旧宅は、保己一が誕生し、幼児期を過ごしたもので、入母屋造り、茅葺二階建てで、向かって左側に田字形の部屋、右側に土間、厩(うまや、現物置)等があり、後世に若干の増築や補修のヶ所があるものの、よく当時の姿を残しています。 |
令和2年9月吉日 埼玉県教育委員会/本庄市教育委員会
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塙 保己一墓所
   
| 塙保己一没後190年記念事業で、塙保己一公園内、記念碑の横に移設改修された墓所。 |
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塙保己一記念館
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ヘレン・ケラー
   
塙 保己一とヘレン・ケラー
3重苦を克服し『奇跡の人』といわれたヘレン・ケラーが、昭和12年(1937)に、平和親善大使として来日し、東京の温故学会を訪れた時、塙 保己一の座像や愛用の机を触って、次のように述べました。
「私は子どもの頃、母から塙先生をお手本にしなさいと励まされて育ちました。今日、先生の像にふれることができたことは、日本における最も有意義なことと思います。先生の手垢の染みたお机と頭を傾けておられる敬虔なお姿とには、心から尊敬を覚えました。先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう。」 |
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塙 保己一記念館インフォメーション
   
所在地=〒367-0298 埼玉県本庄市児玉町八幡山368 アスピアこだま内
電話=0495-72-6032
開業時間= 9:00~16:30
休館日=毎週月曜日(休日の場合その翌日)年末年始
料金:無料(訪問時現在)
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交通アクセス
JR八高線 『児玉』駅より 徒歩10分
JR高崎線 『本庄』駅より「児玉駅入口」までバスで20分
上越新幹線 『本庄早稲田』駅よりタクシーで15分
関越自動車道『本庄児玉』インターより車で15分 |
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盲目の国学者、保己一は本庄市が世界に誇る偉人です。
盲目のハンディを抱えながら、666冊の「群書類従(ぐんしょるいじゅう)を
編纂・刊行し、和学講談所を設立・運営した大学者。
塙 保己一は延享3年(1746)5月5日、現在の埼玉県本庄市児玉町保木野で農家の子供として生まれました。そのころの日本は江戸時代でした。
江戸時代の保木野村は水田と畑が広がり、保己一が生まれた頃は養蚕も盛んでした。
50戸余りの集落のほぼ中央に、保己一の生まれた家がありました。その北側には、龍清寺があり、この御寺の境内で、子供のころ遊びました。 |
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保己一は子どもの頃は寅之助という名前でしたが、体が弱く、5歳の時に肝の病にかかり、それがもとで目を患い、7歳の時に失明してしまいました。
失明してからの保己一は、本を読んでもらったり、手に文字を書いてもらい字を覚えました。記憶力が良く、読んでもらった書物は一字一句記憶していたともいわれています。
保己一が12歳の時、母親が亡くなりました。そして、15歳の時に、自分で生活するために江戸(今の東京)に出ました。 |
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宝暦10年(1760)15歳で江戸に出る時に所持していた巾着と素麺箱。
   
巾着は保己一が生涯大切にしていた母手縫いのもので、母寄与が自分の帯の生地で作ったもの。中には23文が入っていたそうです。
素麺箱は、着替えを入れて背負ったもので、後に林大学頭が大切なものだから「お宝箱」と命名しました。 |
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江戸での修行
   
江戸へ出た保己一は千弥と名前を変えて、盲人一座・雨富須賀一検校の門人となり兄弟子から三味線やあんま、鍼などの修行をしました。
しかし学問をしたかった千弥は、なかなか上手にならなかったので、江戸で生活していくことはできない、お濠に飛び込んで死んでしまおうと思いましたが、思いとどまり、学問をしたい旨を師匠に話しました。
「好きな道を目指すのは結構なこと、これから3年間は面倒を見るが見込みがなければ故郷に帰すとしよう」というありがたい返事でした。 |
宝暦11年(1761)保己一16歳 萩原宗固の門に入り、国学と和歌を学ぶ。また川島貴林に漢学や神道を学ぶ。その後、山岡浚明に法律を品川の東禅寺の孝首座に医学を学ぶ。 |
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当道座
当道座は、くらいの階級が73段階もあるといわれ、入門すると「初心」
から始まり、座頭、勾頭、別当、検校、そして最高位が総検校となります。
   
総検校【そうけんぎょう】
十老【じゅうろう】
検校・別当【けんぎょう・べっとう】(10段階)
勾当【こうとう】(35段階)
座頭・衆分【ざとう・しゅうぶん】(15段階)
打掛【うちかけ】(3段階)
初心(無官)
当道座の組織階級概念図
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右上 保己一の信仰した天神座像
   
左下 般若心経巻数帳
| 般若心経を何回読んだかを記録した小冊子です。保己一は安永8年(1779)に『群書類従』の編纂を決意して、般若心経を一日百回、百万回読むことを誓いました。この小冊子には、安永8年(1779)から文政4年(1821)までの43年間に198万回余り詠んだことが記されています。43年間一日も欠かさず、毎日100回以上詠んだことになります。 |
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明和3年(1765) 保己一21歳の時、雨宮検校の計らいで、父とともに伊勢参り。次いで、京都、大阪等を60日ほど旅する。
この時、京都天満宮に参り守護神とする。 |
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保己一の決意
   
保己一は小さなことで腹を立てると、大きな仕事はできないと思い、願いを叶えるために、天神様に『般若心経』を毎日百回読むことを誓いました。
ある時、下駄のひもが切れたので、近くの版木屋に入って直してもらおうとしたところ、ヒモを投げ捨てられ、追い出されてしまいました。
保己一は、大変悔しい思いをしましたが、追い出した版木屋の人は、自分を励ましてくれたのだと考えて、腹を立てることはしませんでした。 |
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道中日々記
   
文化14年(1817)12月。京都へ旅した時の日記
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版木について
   
『群書類従』の版木は 縦21cm✕横42cm、厚さ2cmの桜材で、表裏に文字が彫られています。桜材はきめ細かく、細かい文字を彫刻するのに適しているといわれます。
版木には、漢文の場合、1行20字✕20行=400字が彫られており、今日の原稿用紙のもとになったといわれます。 |
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『群書類従』ができるまで
   
| 1 |
筆写 |
原本を筆写する |
| 2 |
校訂 |
他の本と比べ合わせたりしながら、校正する。 |
| 3 |
清書 |
出版するために清書する。 |
| 4 |
版木 |
印刷するために版木に彫る。 |
| 5 |
摺り |
版木から1まいずつ紙に摺る |
| 6 |
製本 |
摺り上がったものを製本する |
| できあがり |
| 『群書類従』を編纂、刊行するにはまず、保己一が叢書として収録する書物を探し出さなけらばなりません。幕府の紅葉山文庫をはじめ、水戸の彰考館、伊勢神宮の文庫、増上寺、尾張の真福寺、更には大名や京の公家に願い出て、門人に筆写を続けさせました。保己一は名古屋、京都、伊勢、大阪方面にたびたび調査や研究に出かけ、原本や写本の収集と綿密で厳正な校訂を行いました。 |
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温故堂
   
保己一は、老中松平定信に和学講談所の命名を依頼して、定信は『温故堂』と名づけました。水戸藩主の水戸治保によって書かれ、保己一の弟子の屋代弘賢によって、彫られた木額があります、この木額は和学講談所の玄関に掲げられていたといわれています。
当初は温故堂と呼ばれましたが、次第に正式名称として『和学講談所』と呼ばれるようになりました。 |
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寛政5年(1793)保己一48歳の時 裏六番町に「和学講談所」を開設。会読を始める。
文化2年(1805)保己一60歳の時 表六番町に「和学講談所」移る。当道座の十老となる。 |
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和学講談所 1/50 模型
   
| 成沢福松氏(成沢建築研究所会長)の復元による図面をもとに、再現した模型 |
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天満宮軒丸瓦
   
和学講談所内にあった天満宮の軒丸瓦
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天満宮額
   
和学講談所内にあった天満宮にかかっていた額。
文化6年(1809)2月23日の銘がある。 |
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和学講談所での講義
   
和学講談所には、多くの門人が集まり、歴史や法律の勉強が行われていました。
保己一が夏の夜に講義をしていた時、吹き込んだ風で明かりが消えてしまったので、弟子たちが慌てると「目あきというものは不自由なものだ」と大笑いした、という話も残されています。 |
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御伝(おんでん)
   
| 保己一の略伝。作者は不詳。保己一の没後に書かれたもの。前半は保己一の生涯を簡略に述べ、後半は他の伝記では見られない逸話などを紹介しています。本文中には作者の親族である森観齋が写した保己一肖像が載せてあり、「この図は実に先生を見る如し」とか「人の肖像世に多しといへども、此図の如くよく似たるはいとまれなり」とあって、保己一の姿を現在に伝える貴重な肖像画です。 |
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保己一の作品と愛用の品
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保己一の知恵
   
| あるとき、町名を書いた紙を見せて、「さんずいに吉」という字の付いた町に行きたいのだがと訪ねた人がいましたが、誰もわかりませんでした。保己一がこれを聞いて、それは『油町』のことだろうといいました。「この字を書いた人は町名は知っていたが文字を知らなかったのだろう。そばにいた人がさんずいに吉だといったので、由を吉と誤って書いてしまったのだろう」と答えたということです。 |
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保己一と和歌
『群書類従』の中で和歌は、189冊、版木数にして 5.636 と、その数は他と比べると、一段と多いものとなっています。(次に多いのが雑の 114冊、版木数
2,622です。)
保己一は和歌を好み『郡書類従』にも多くの和歌関係書物を収録しています。自らも和歌を詠み、 『松山集』という和歌集を出しています。保己一の残した作品の中でも最もよく知られた作品に、「ふしのすそ野にて」と題されて和歌があります。 |
「ふしのすそ野にて」
ことの葉の およはぬ身には 目に見ぬも
中なかよしや 雪のふしのね
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この和歌は文化7年(1810)に、保己一が65歳の時、上京の途中に浮島が原で詠んだ和歌で、雪の富士山を思い浮かべながら詠んだものです。
「和歌の力がない私にとっては、雪の富士山の絶景を表現することが出来ない。だから、目に見えなくても、かえって良かったのだ」という意味です。
この和歌は、郷里の保木野に建てられた保己一の墓碑にも刻まれています。 |
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* 塙保己一がどうして「群書類従」を出版したのでしょうか?
   
昔に描かれた大事な本がなくなってしまったり、見つからなかったりしたら本を読んで、勉強しようとする人たちが困ってしまいます。
そこで大事な本を探し出して、間違いを直して、さがしだしやすいように整理して、みんなの役に立てようとしました。 |
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| 安永8年(1779)保己一34歳 「群書類従」の出版を決意。 |
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「群書類従」は、どうして版木に彫られたのでしょう。
   
昔は、本は一文字一文字書き写していました。
版木に彫ると、一文字一文字書き写すことがなく、版画のように何枚もつくることができます。また書き写すときの間違いもありません。そして版木にして残しておけばいつでも摺ることができます。
「群書類従」の版木を保管している温故学会では、今でも当時の版木を使って、『群書類従』を作ることができます。 |
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「群書類従」の版木は、原稿用紙のもとになった?
   
| 「群書類従」の版木は、タテ20字、ヨコ20行の400字詰めです。学校などで使われる原稿用紙もほぼ同じ大きさの400字詰めです。しかも本にするために、中央には、マス目のない1行があり、折り目の部分にあたります。 |
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和とじ本ってなに?
   
昔の本は、1ページごとに筆で文字を書いたり、版木で摺ったりした1枚を二つ折りにして、端を糸で綴じました。
「群書類従」も塙保己一の時代は、和とじ本でつくられました。長いものは上・中・下などあまり厚くならないようになっています。 |
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和とじ本
   
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塙 保己一 ミニ座像
   
たくさんお勉強しました。
本日のお供は スザナでした。
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お気づきのこと等がございましたら
ご一報ください。→: こちら!
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