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所在地=〒356-0011 埼玉県ふじみ野市福岡3-4-2 TEL= 049-269-4859 開館時間=5月~9月10:00~16:30/10月~4月10:00~16:00 . ※最終は閉館30分前 入館料=一般・学生:100円/児童・生徒:50円 . 20人以上団体割引 ※特別公開日のみ高校生以下無料 休館日=毎週月曜日(祝日の時も休館)12/27~1/4 無料駐車場=約20m位離れた川付近にあり |
電車 | 東武東上線『上福岡』駅 より徒歩20分 |
バス | 東武東上線『上福岡』駅より西武バス「南古谷駅行き」⇒ 『城北埼玉中学・高等学校』下車徒歩3分 |
明治33年頃に建てられた埼玉県内でも例の少ない 木造三階建は、主に接客用に使われていました。 |
明治初期に建てられ、帳場や箱階段など 明治期の船問屋の様子を伝えています。 |
江戸時代から明治時代中ごろにかけて新河岸川舟運で栄えた福岡河岸には、往時の様子を伝える貴重な文化遺産が残されています。福岡河岸記念館は市指定文化財回漕問屋福田屋の建物を保存・公開し、舟運と問屋の暮らしを展示しています。 |
寛永15年(1638)の川越の大火で焼失した仙波東照宮の再建資材を、江戸から新河岸川で運んだのが舟運の始まりとされています。舟運が本格化したのは正保4年(1647)頃といわれ、その後近隣農村の開拓によって農業が発展すると、農村と江戸を結ぶ物質輸送の中継地として多くの河岸場が設置されるようになりました。 地の利を生かした福岡河岸もその一つで、享保18年(1733)頃から福岡村の人々が回漕業を営み、安永2年(1773)には3軒の舟問屋が幕府から公認されました。天保2年(1831)以降、吉野屋・江戸屋・福田屋が仲買商を兼ねながら船問屋を営業していました。 対岸の古市河岸とともに、福岡河岸は明治時代に最盛期をむかえ、新河岸川舟運は、昭和初期まで約300年間続きました。 |
古くから続いている家には、家の中の神棚とは別に、屋敷やその土地を守護する目的で敷地内に小さな祠(ほこら)や神社を見ることがあります。これを「屋敷神」とよび、福岡河岸記念館の敷地内にも、中庭と台所脇の2カ所に祀られています。 |
土間の かまど |
階段の踏面の狭いこと!! 進入禁止でしたが、男部屋への階段です。二階には、広さ12畳ほどの部屋があり、番頭をはじめ福田屋で働く男性たちが、寝起きをしていました。 |
台所 |
大番頭をはじめ番頭・蔵番など問屋で働く大勢の人々や、家族の食事をまかなうためにたくさんの食器類や炊事具が使われました。 また、年中行事や冠婚葬祭などでは、蔵から取り出したそろいのお膳や吸い物椀などに、料理を盛りつけ、客を持てなしていたようです。その際の酒宴で使われて銚子や盃もたくさん残されていました。大皿に盛った料理を、ここから宴席へと運んで行ったのでしょう。 |
明治30年代に建てられ、問屋で働く大勢の人々や家族の食事をまかなっていました。たくさんの客が集まった時には料理や酒、肴を準備し、酒宴の席へと運んでいきました。 |
土間の 流し台 |
母屋の土間には、市内川崎の船大工が書いた図面や川船史料ををもとに復元したオカジ(舵)を展示しています。 |
米俵や農産物などを運ぶ時に使われた。積み量によって大きさが変わり、手車・牛車・バリキ(馬力)等がある。 これらの荷車は車大工と呼ばれる職人により作られる。市内にはいなかったので市内の農家では隣接している古市場や南畑の職人に注文していた。 |
荷主との取引を行う帳場は、いわば船問屋の顔でした。船頭や馬方たちも大勢出入りし、大変賑わっていました。 店内の一角を帳場格子で仕切り、内側には帳場机や銭箱・あたり箱・そろばん箱・たんすなどが置かれていました。店の印半天(しるしばんてん)を着た番頭達は荷主と対応し、荷の種類や数量を大福帳に記入していました。 帳面には、ぬか、灰、炭、穀物、杉皮、塩、荒物、味噌、材木など多数の荷が記され、それぞれ河岸場や敷地内の土蔵や納屋に一時的に収納されてから、東京へ向かう船に積まれたり、野方(畑作地帯)へと運ばれていきました。 |
文庫蔵では、船問屋のなりわいや、東上線の敷設に力を注いだ福田屋十代星野仙蔵を通して、舟運の盛衰を紹介していました。また剣道家としても名をなした 仙蔵の剣道関係資料も展示しています。 |
黒漆喰に塗り固められた文庫蔵は、切妻造り瓦葺の木造二階建てです。明治27年(1894)敷地図面には、現在の文庫蔵の位置に「瓦葺平屋土蔵」と記されており、それ以降に、二階建ての現文庫蔵が造られたと考えられます。また、柱・小屋組架構材等が鉋(かんな)で仕上げられている構造技法から、大工技術の成熟した明治時代後期の建築と思われます。 ※平成8年に福岡河岸記念館として公開するにあたり、一階の床は、土間と板の間になっていたのを、展示ケースを置き、常設展示室に改装しています。なお、床面は板張り、天井には照明器具を配置し、建物を傷つけないよう配慮しています。 |
文庫蔵から見える庭と受付方面の景色 |
福田屋十代当主星野仙蔵が、接客用に命じ33年(1900)頃に建設したといわれています。二階庇(ひさし)の屋根瓦には、作業中の屋根織人が釘(くぎ)で刻んだ「明治31年(1898)の年号が見られ、この頃に建設中であったことがわかります。明治期の木造三階建という建造物は、県内でも僅少で、貴重な文化財になっています。 三階まで達する通し柱は、四隅と室内2本の6本で構成され、この通し柱のおかげで、大正12年(1923)の関東大震災の激しい揺れにもびくともしなかったといわれています。桁などで中断される管柱も、室内にあらわれるもの、壁に塗り込められているものなど多様な構造技法を採用しています。 ※平成29年度に耐震補強工事を行いました。 |
硬貨を計算する道具です。一度に50枚、80枚などの硬貨を簡単に数えることができます。硬貨の種類に合わせて作られ、商店などでは必須の計算用具でした。 |
笄(こうがい)はもともとかみをかきととのえる道具だったが、江戸時代以降まげを結ったりする際に髪型が崩れないように安定させる道具となりそのまま髪どめに使われるようになった。 |
十代星野仙蔵は、新河岸川舟運が最も栄えた明治期を生き、上福岡の歴史を語るうえでも、欠かせない存在です。 福田屋の主人である一方、衆議院議員をつとめ、政治家としても活躍しました。鉄道敷設においても中心的役割を果たし、東上線開通への尽力は仙蔵の業績の1つとして語り継がれています。 また剣聖・高野佐三郎との親交も厚く、屋敷地内に福岡明信館という剣道場を建て、多くの弟子を育成した剣道家でもありました。接客用の木造三階建の離れに、多くの人たちを招待し、交友関係を広げたようです。 さらに仙蔵は、明治43年(1910)8月の大洪水には蔵の米をすべて炊き出し、被災した村々へまわり、多くの人を援助しました。この事績は新聞にもとりあげられました。 |
明治28年(1895)、川越鉄道(現在の西武新宿線)の開通により、物資輸送はしだいに新河岸川舟運から鉄道へとうつりかわりました。船問屋にも影響を与え、江戸屋と福田屋は明治末年に問屋の営業をやめています。 大正3年(1914)には星野仙蔵をはじめ地元の人たちの努力により、新河岸川舟運にかわる新しい交通手段として、東上鉄道(東上線)の池袋・川越間が開通し、上福岡駅が開設されました。この年、福田屋も上福岡駅前に星野運送店を開業し、新たな道を歩みはじめていきました。 その後大正10年(1921)に着工された河川改修工事により、新河岸川の流が大きく変わり、最後まで営業していた吉野屋も大正末期には廃業しました。そして昭和6年(1931)、通船停止令が出され、事実上新河岸川舟運は約300年の歴史を閉じました。 |
荷船は、風向きの良いときには白い帆を張り、風の力も使って航行していました。帆柱はシンヅカと呼ばれる2本の柱を支えにして立てられ、先端についた滑車を使って帆綱を引き、帆桁に取り付けた帆を引き上げます。帆は、数枚の長い布をつなぎあわせてつくられていました。 |
訪問した日は離れ、主屋2階が非公開でしたが、 11/2(土)と12/14(土)が特別公開されます。 |
お供は、ジョージーナ。木造3階建離れの縁側です。 |
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