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所在地=〒352-0011 埼玉県新座市野火止 3-1-1 入山時間= 9:00~15:50(最終受付 15:30) 入山料=大人(中学生より)500円 有料駐車場=あり 500円/回 |
鉄道利用 | 東武東上線『志木』駅より〈バス「ひばりが丘駅北口」行き他〉 東武東上線『朝霞台』駅より〈〃「東久留米駅」行き他〉 西武池袋線『東久留米』駅東口より〈〃「朝霞台駅」行き他〉 西武池袋線『ひばりが丘』駅北口より〈〃「志木駅南口」行き〉 JR武蔵野線『新座』駅より徒歩45分またはバス |
バス利用 | 鉄道各駅よりバスで15分~20分『平林寺』下車すぐ |
明暦元年(1655)川越城主松平信綱は、家臣小畠助左衛門、安松金右衛門をして、領地野火止に玉川上水より引水して此の地の潤沢を期せしめたるが、寛文3年(1663)に至り二代輝綱、遺命によりて騎西郡岩附(現岩槻)に在りし祖先の菩提所なる金鳳山平林寺を野火止の地に移して諸堂宇を完備せしめ、先祖歴代の墳墓を寺後の丘上に営み、野火止用水を西堀より別に溝を穿ちて平林寺供養水として境内に引き至らしめた。 用水路は最初、30間位は岡地を穿ち、後の約10町は平地上に高さ6尺の土手を築き、その上を本流とせるものなり。寺の境内に入りて諸堂の後苑に至る。途中墓地入口にて、流を分かち弁天池に至らしめ、後苑にて三枝流を分かつ。 一流は本堂の後より書院の床下を廻り庫裡の中を通り前庭に至り、一流は後苑の築山を通り泉池に注ぎ、一流は築山の横を迂回して苑内を廻流す。苑内にて三流合して一水となり、仏殿、山門の右側を流れて総門に至り、総門より大門通りを流れて川越街道に達せしむ。弁天池に注ぐ水路の溝は地を穿ちて自然の趣を保ち、書院、庫裡等で廻流する部分は切石にて畳み、流水の浸蝕を妨げり。 平林寺は秩父連峰を背景に南は駿河の富士山を望み、野趣閑雅なる所謂武蔵野の大平野の中にあり。裏山の楢、樺等の自然林と共に松、杉、梅、楓等の鬱蒼なる大樹林に囲まれて塔堂伽藍聳え立ち、野火止用水の潺潺たる流水の音と相まって四季の風情は格別にして林泉の美を極めり。之れ唯だ関東のみならず我が国に於ける貴重なる存在なり。 茲に審議の結果史跡として地方的保存価値なるものなりと決定す。 昭和19年2月 埼玉県 |
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当寺は本尊「釈迦如来」を祀る禅寺であり禅修行の専門道場である。 崇敬の念を起こし、静寂を保ち、些たりとも修行の妨げになるような行為は厳に慎むこと。 当域は国の天然記念物に指定されて自然保護区である。凡ての植物や鳥魚類、昆虫等に危害を加えたり、採集をしないこと。 寺域内にある山門、仏殿、その他の建造物や野火止用水、信綱公の御廟等の史跡の文化財を壊したり、傷つけたりしないこと。 |
金鳳山平林寺の創建は南北朝時代。 明治期には禅修行の専門道場を開設し 臨済禅の法灯をいまに伝えます。 本山は京都花園の妙心寺です。 |
平林寺は永和元年(1375)武蔵国(武州)、現さいたま市岩槻区に創建されました。開山は当時の鎌倉建長寺住寺であった石室善玖禅師、開基は岩槻城主春桂薀沢居士(大田備中守)です。 戦国時代の戦禍を受けた平林寺は、徳川家康の厚情により天正20年(1592)駿河国臨済寺住寺鉄山宗鈍禅師を迎え中興します。やがて川越藩主と幕府老中を勤めた松平伊豆守信綱の一族の菩提寺となり寛文3年(1663)信綱の遺命によって現在の野火止に移転されました。 明治37年(1904)妙心寺派では初となる関東の専門道場として、平林僧堂が開単。広大な境内林の静謐に守られた、歴史と文化の息づく武蔵野の禅刹です。 |
正面にそびえる山門は、岩槻から移された築350余年の堂々たる風格です。 |
扁額「凌霄閣」は総門扁額「金鳳山」と共に江戸初期の文人石川丈山の筆。山門をくぐると、本尊(釈迦如来坐像)を祀る仏殿が現れます。 |
実業家松永安左エ門が廃寺に遭った像をゆずり受けて、寄進したもの。 |
経典を修めています |
扁額「無形元寂寥」はこの写真では見えませんが、江戸中期の書家三井親和(みついしんな)の筆によるものです。 |
あわただしい この世にも 安らぎの座 がある、それは しずかな心である |
身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようとこの雑木林が、「ふるさとの緑の景観地」に指定されました。 平林寺は臨済宗妙心寺派の名高い古刹で開山は、石室善玖大和尚です。境内に生育する樹林は、典型的な武蔵野の雑木林としての景観をとどめており、本県でも有数のふるさとを象徴する緑です。林相は、主にクリ、クヌギ、コナラ、アカマツなどから構成されていて、アカハラ、アオゲラ、カケスなどの鳥類も多数生息しています。 なお、山内では、厳しい禅の修行が行われていますので、境内林を散策する際は、お静かにお願いします。 |
東京ドーム9個分の広さの境内林は、季節折々の美しさを湛えており、平成21年、当時の天皇皇后両陛下も散策されています。 |
寛永14年から15年(1637~38)にかけて肥後国天草の農民が、キリシタン信者と結合して起こした大反乱(島原・天草の一揆)を、大河内松平家の祖である松平伊豆守信綱が収めたことに由来する供養塔です。 この戦いによって亡くなった人たちの霊をなぐさめるためと、先祖の松平伊豆守信綱の足跡を知らしめるために、三河国吉田藩松平伊豆守家の家臣である大嶋左源太が、文久元年(1861)に大河内松平家の菩提寺である平林寺に建立したものです。 |
夏目漱石の小説『草枕』に登場する熊本小天(おあま)温泉の美人「那美」のモデルとされる前田卓(1868~1938)の墓です。 |
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」という有名な書き出しで始まる 夏目漱石の代表作の一つ『草枕』に登場する印象的な美人「那美」のモデルとされる前田卓(卓子とも)と、『宗教的人間』『臨済・荘子』の著者として知られる前田利鎌(まえだとがま)の墓所です。二人は熊本小天の名家 前田家の出身で利鎌は卓の異母弟。後に卓の養子となっています。 二人の父は前田案山子、衆議院議員として自由民権運動に活躍した人です。骨董通りの老人としてやはり『草枕』に登場しています。 漱石は明治30年熊本五高の教師時代に同僚と小天温泉に遊び、前田家(「那古井の宿」)を訪れ卓や案山子と出会っています。その旅の印象を後に小説にしたのが『草枕』です。 二人は後に上京し漱石と再会、利鎌は一高・東大と進学し哲学を修める一方で、夏目家に頻繁に出入りして晩年の漱石から薫陶を受けています。 平林寺には東工大教授となってから学生と共に熱心に参禅に訪れていましたが、惜しくも腸チフスのために34歳の若さで病歿、卓によってここに葬られました。 卓は上京後辛亥革命の支援等に活躍しましたが、利鎌没して7年の後71歳で逝去、利鎌とともにこの地に眠りました。 |
増田長盛は、秀吉側近の「五奉行」の一人で、豊臣方についての家康との戦いでは、伏見城攻め、大津城の戦いには参加し、攻撃に加わったがその後の関ケ原の戦いには参加せず、戦い終了後に出家、家康に謝罪、身柄は高野山に預けられた。所領没収の他金1900枚と銀5000枚を差し出し命だけは助けられた。後に岩槻城主、高力清永預りとなった。元和元年(1615)尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が大坂の陣で尾張藩を出奔して豊臣側に与した。そのことで父長盛は大坂の陣終了後切腹を命じられ元和元年5月27日自害した。享年71歳 |
見性院は武田信玄の娘の一人で、武田家滅亡の後、江戸城に迎えられたそうです。 |
平林寺堀、野火止用水に架かる橋 |
明暦元年(1655)川越城主松平信綱は、家臣小畠助左衛門、安松金右衛門をして、領地野火止に玉川上水より引水して此の地の潤沢を期せしめたるが、寛文3年(1663)に至り二代輝綱、遺命によりて騎西郡岩附(現岩槻)に在りし祖先の菩提所なる金鳳山平林寺を野火止の地に移して諸堂宇を完備せしめ、先祖歴代の墳墓を寺後の丘上に営み、野火止用水を西堀より別に溝を穿ちて平林寺供養水として境内に引き至らしめた。 |
「知恵伊豆」と称された松平伊豆守信綱は、幕府の代官である大河内金兵衛久綱の長男として、慶長元年(1596)に生まれた。幼名を長四郎といい、同年6年、久綱の弟で徳川家一門である「長沢松平」氏を相続していた松平正綱の養子となり、同九年7月に家光が誕生すると、信綱は召し出されて家光附きの小姓となった。 元和 6年(1620)養父である正綱に実子が生まれたので信綱は別家し、「大河内松平」を興した。同年5百石、同9年小姓組番頭となり、加増されて8百石を知行。同年7月、家光の上洛に供奉し、伏見において家光が三代将軍となると、信綱は従五位下伊豆守に叙任した。 寛永元年(1624)信綱は2千石となり、同4年には一挙に8千石の加増をうけて一万石を領した。さらに同7年には5千石を加増されている。この間、信綱の忠義な奉公ぶりと才知は、家光の絶大な信頼を得ていた。家光政権の確立の中で、同年11月に信綱は老中並となり、阿部忠秋・堀田正盛らとともに6人衆に任ぜられ、幕政に参画する。ついで10年5月、信綱は1万5千石加増の上、武蔵忍城主となり3万石を領し、さらに12年11月には信綱は忠秋・正盛とともに老中となった。 こうして信綱は旗本から、幕閣かつ一国一城の主として出世を遂げたのである。 寛永14年10月九州島原の乱が起こり、信綱が将として派遣され、これを鎮定した。その功によって同16年川越城に転封され、3万石の加増をうけて6万石を領した。同20年、侍従に進み、天保4年(1647)1万5千石を加増され、その所領は合わせて7万5千石となった。 信綱は三代将軍家光、四代家綱の老中として活躍し、幕府初期政治の基礎を固め、古今の名相とも謳われる一方、郷土の発展につくした功績も大きく、のちの小江戸と称される川越の基礎をつくり、新河岸川の舟運をおこしたり、川越街道の整備なども行っている。 また、承応4年(1655)には、玉川上水から野火止用水を引き、野火止台地に生活用水を供給し、荒野の開発を行った。 信綱は、この野火止台地開発とともに所領の野火止村に、菩提寺である平林寺を岩槻から移転させることを切望したが果たせず、寛文2年(1662)3月16日に逝去した。享年67歳。法名は、松林院殿乾徳全梁大居士。 初め、岩槻の平林寺に埋葬されたが、子の輝綱が父信綱の遺命を守り、翌3年に平林寺の伽藍および墓石にいたるまで、現在地に移建したため、改葬されたものである。 |
信綱の祖父大河内秀綱、父久綱に連なる直系一族と、傍系の大多喜家、右京大夫家の墓所。170基もの墓石が一ケ寺にまとまって残存する、全国でも有数の大廟所です。 |
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