c435 星住山 善養寺

東京都(Tokyo-To)
2025/09/21 Sun.  


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星住山 善養寺


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No.c435 星住山 善養寺
No.c435 Seijuzan ZenyouJi

Tokyo-To /Beautiful Japan
Photo 31 pieces/GreenSeason
◆影向の松
◆星降り松
◆栃錦清隆 ◆栃錦
◆大横綱しめ縄
◆鯖大師
◆浅間山噴火殉難者供養塔
◇寺院、星住山 善養寺
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2 仁王像


星住山 善養寺 インフォメーション

所在地=〒133-0052 東京都江戸川区東小岩2-24-2
TEL=03-3657-6692 / FAX=03-3658-0055
山名=星住山
寺院名=善養寺
参拝者用駐車場=あり
交通アクセス
JR総武線『小岩』駅南口より2番バス乗り場から72番系統に乗車『江戸川病院前』下車
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3 仁王門


仁王門

本堂正面の朱塗りの山門、寛保年間(1741頃)の建立で、昭和58年に改修されました。
「星住山」の額は仁和寺(旧御室御所)新乗院の源証大僧正の筆です。
 仁王像の裏、左側に「影向の松」に贈られた大横綱のしめ縄/右に小岩出身の横綱「栃錦」像(JR小岩駅にある名横綱栃錦像の原型です)。
 大横綱しめ縄
 この寺にある「影向の松(ようごうのまつ)」は、全国一の巨松と紹介され、関取に見立てた『大横綱』の称号が贈られました。(ライバルの巨松が四国・香川県から名乗りを上げましたが、詳細は18の写真で説明)その際、当時の春日野親方(元第44代横綱「栃錦」)から贈呈された「大横綱のしめ縄」が仁王門内側、向かって左側に飾られています。




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春日野清隆さん(栃錦)から贈られた 影向の松の大横綱のしめ縄

 仁王門・仁王像裏に展示




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横綱「栃錦」像
小岩出身の横綱「栃錦」像(JR小岩駅にある名横綱栃錦像の原型)

 栃錦清隆は、1925年小岩村で蛇の目傘製造を営む家の二男として生まれる。並外れた体力の持ち主で、近所の人から勧められ、13歳で春日野部屋に入門、1939年1月場所で初土俵を踏む。相撲力士としては軽量で、当初周囲の期待はあまり高くなかった。
 1944年5月場所で十両昇進を果たすが直後に徴兵され、終戦まで軍隊生活を送る。1945年11月、十両で番付復帰、1947年6月場所で新入幕を果たす。(体重は何と75kg!) 1951年小結となり、やがて三役に定着、技能賞の常連となる。1952年末大関に昇進(まだ98kg)1953年3月場所で大関として初優勝。1954年9月場所で優勝し、横綱に昇進(大正生まれ最後の横綱昇進者)
 1951年の初顔合わせ以来、初代若乃花と熱戦を演じ、小兵同士で土俵狭しと動き回る2人の姿は、1953年のテレビ放映の開始により、全国の相撲ファンを熱狂させる。小さな体で大柄肥満の力士を次々となぎ倒す2人の姿に、戦後復興に立ち上がる日本の多くの人々は自らの姿を重ね合わせ、相撲人気は一気に高まりを見せる。2人の活躍する相撲黄金時代を「栃若(とち・わか)時代」と呼ぶ。
 1960年5月場所で、初日から2連敗すると引退を表明、春日野部屋を引き継ぐ。時代は柏戸と大鵬の「柏鵬(はくほう)時代へと移り変わる。
  1974年には、日本相撲協会の理事長に就任。在任中の1985年、現・両国国技館の落成にこぎつける。1988年元ライバル初代若乃花の二子山親方に理事長職を譲り引退。
 1989年11月場所、初日直前に福岡で脳梗塞で倒れ、同地で入院、翌1990年1月に死去(64歳)。同年12月25日、地元JR総武線「小岩駅」改札前に横綱当時の土俵入りの姿の銅像が建てられた。

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大師堂

真言宗の寺院ではもちろん「大師」様=空海=弘法大師のことです。
今回のお出かけで、本来目的としていた彼岸花の姿を発見!




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彼岸花

 思わずクローズアップしてみました。




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釈尊聖地土砂宝塔

 お釈迦様にまつわる四大聖地(誕生の地ルンビニー、成道の地ブッダガヤー、初伝法輪の地サールナート、涅槃の地クシナガラ)と、四カ所の仏跡地(説法の地ラージャグリハ、大神変の地シュラーヴァスティー、霊峰グリドラクータ、サーンチーの大塔)の八カ所のお砂を宝塔の周囲に納めてあります。右廻りに一周することで、お砂踏みをしてこれらの聖地をお参りすることができます。昭和33年に日本で初めて建立されました。
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新 四国八十八カ所 霊場

 四国八十八カ所、それぞれの霊場からいただいたお砂の上に祠を建て、ここを通ってお参りすると四国遍路をしたのと同じ御利益があります。大正時代の創建です。
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稚児大師

 幼少期の空海=弘法大師をお祭りしています。




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中央:鐘楼堂

 鐘楼堂の左:横綱山/右:修行大師




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鐘楼





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鯖大師

 鯖大師本坊(四国別格二十霊場第四番)
徳島県海部郡海陽町浅川字中相15

 四国を巡る中、お大師様はこの地が霊地であることを悟り、同地で修行を続けていました。
 ある朝、通りかかった馬子に積み荷の塩鯖をもらい受けようとしましたが、口汚く罵られ、断られました。その馬子が馬引坂まで来たとき、馬が急に苦しみ出しました。
 先ほどの僧が大師様であると気づいた馬子は鯖を持ってお詫びし、馬の病気を治してくれるよう懇請すると、お大師様はお加持水を与え、馬をたちまち元気にさせました。さらに、お大師様は八坂矢濱の法生島で塩鯖をお加持して海に解き放つと、鯖は生き返って泳いでいきました。
 これを見た馬子は、この地に庵を建て古今来世まで、人々の救いの霊場としました。
 鯖を3年絶ってご祈念すると願いが叶い、病気が治り幸福になるとされ、この霊場は鯖大師と呼ばれるようになりました。
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浅間山噴火殉難者供養塔

 天明3年(1783)7月6日(新暦8月3日)信州浅間山が大爆発を起きしました。噴出した火砕流は麓の村々を押し流し、多くの村人が犠牲になりました。その瓦礫とともに、吾妻川~利根川~江戸川(旧利根川下流) 約200km の流れに運ばれて、おびただしい遺体が当地の中州に漂着し、船の運航に差し支えるほどだったといいます。その痛ましい光景を見かねた小岩村の人々が、当時の住職に供養を依頼しました。この碑はその13回忌にあたる寛政7年に建立されたもので、昭和48年に東京都の文化財に指定されています。また、200回忌にあたる昭和57年に「浅間山焼け供養碑和讃」を建立し、被害者の供養をしています。
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不動門

 不動堂の正面にある西門




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不動門から見た
左:背が低く広がった松=影向の松(ようごうのまつ)
右:背の高い松=星降り松(ほしくだりまつ)2世
左に見える屋根=不動堂

星降り松(ほしくだりまつ)2世
 弘法大師が若き日に高知の室戸岬で『虚空蔵求聞持法』という修行をしたとき、最後の日に天から明星が降ってきて、面前で光り輝いたと伝えられています。善養寺九世住職の賢融和尚がこの修行をしたところ、同じく最後の日に明星が降ってきて境内の老松に留まり、この光景を目にした人々が、以来その松を「星降りの松」と呼ぶようになったといわれています。
 善養寺の山号「星住山」は、この霊験に由来します。また、降ってきた明星は「星精舎利」として今に伝わり、境内の密厳宝塔にお奉りしています。
  樹齢600年、高さ30mを誇った1世は昭和15年の台風によって枯れてしまいましたが、、現在は昭和28年に植樹された2世が元気に育っています。
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影向の松(ようごうのまつ)

 四方に枝を広げ、巨大な盆栽を思わせる黒松です。樹齢は600年以上、枝は東西28m、南北32mに伸び、繁茂面積は現在日本一ともいわれています。「影向(ようごう)」とは、神仏が機縁に応じてこの世に姿をあらわすという意味で、その偉容が神仏のように荘厳であることからこの名が付けられました。近年は樹勢の衰えも見られましたが、現在は回復の兆しを見せ、平成23年には国の天然記念物に指定されました。




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影向の松
横綱松誕生の経緯

 昭和54年にテレビで「影向の松が日本一」と紹介された際、香川県さぬきし市志度町真覚寺の「岡野松」から待った がかかり、両者の間で日本一論争が起こりました。当時の大相撲立行司木村庄之助が「どちらも日本一につき東西の横綱に」との名裁きを下し決着を見ました。
 翌年この経緯を聞いた大相撲協会春日野理事長(元横綱:栃錦関)が、影向の松を東の横綱に推挙するとともに、松の幹のサイズに合わせた大横綱しめ縄を奉納しました。
 ※ 現在しめ縄は、仁王門仁王像の裏に展示しています。
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不動堂
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 毘首羯摩(びしゅかつま/様々な道具や工芸品を作るインドの神)制作と伝えられる、三国伝来の四尺立像不動明王を奉る朱塗りのお堂です。開山賴澄法印が醍醐より請来した不動明王像は、忿怒(ふんぬ)の形相で勇ましい立ち姿をしていますが、普段は秘仏で正月三ケ日のみ開帳しています。また、不動明王のご縁日である毎月28日には、祈祷護摩を焚いています。




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サルスベリの花





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本堂

開基・沿革・宗派
 今から480年余の昔、足利第12代義晴公の治世中、大永7年(1527)、山城醍醐山の住僧であった頼澄法印(らいちょうほういん)が霊夢のお告げを受け、一山の霊宝の不動明王を捧持して当地に下向し一宇の堂を建立したのが、この寺の開基と伝えられています。ただし、史実としてはこの寺伝以前の永正6年(1509)に出版された連歌師宗長の紀行文「東路(あずまじ)のつと」に、宗長が善養寺に立ち寄ったことが記されています。江戸時代には徳川第三代家光公より十石の朱印領を賜り、末寺を統領する中本寺として法燈を継いで今日に至っています。現在は真言宗豊山派に属し、奈良県初瀬の長谷寺を総本山、東京都音羽の護国寺を大本山に仰ぎます。
 ※真言宗豊山派について
 覚鑁(かくばん/興教大師)の教学をもとにした「新義真言宗」の一派。
 覚鑁は僧侶の堕落による真言宗衰退の危機を救おうと立ち上がるが、現状維持を望む保守派僧侶と対立、拠点とする大伝法院を高野山上から紀ノ川沿いの「根来(ねごろ)」の地に移す。覚鑁死(1143年)後、門弟達は再び大伝法院を高野山に戻すが、その後も保守派との確執はおさまらず、1288年同派の指導者頼瑜(らいゆ)が、門弟達を連れて高野山を下り、根来に再び拠点を移し、覚鑁の教義を発展させ「新義」の教義を打ち立て、根来に「新義真言宗」教団の確立をはかる。
 戦国時代になると、根来寺の武装化が進み巨大僧兵集団「根来衆」が形成され、戦国大名間の争いに介入するようになる。
 危機感をいだいた豊臣秀吉は1585年根来寺を焼き討ちし、徹底的に破壊、多くの僧侶は処刑されるが、高野山上や長谷寺へ逃れる僧侶もあった。
 秀吉は、高野山上へ逃れた僧侶らに対し、京都東山の地に智積院を再興させる。
 このグループは、後に智山派を名乗るようになる。長谷寺に逃れたものは豊山派と名乗り、総本山であった根来寺から2派が分立することとなった。(秀吉は勢力分断を企図していた)
 江戸時代になると根来寺の復興がはかられるが、智積院(智山派)と長谷寺(豊山派)に分散した僧侶はもどることなく、3者各々自立した教団となった。(覚鑁を祖とし頼瑜が確立した新義真言宗の分派として存立)


本堂前の香炉









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おびんづるさま

 お釈迦様の弟子である16羅漢の一人で、神通力が大変強かったそうです。その神通力を修行中にもてあそび、お釈迦様に叱られて以来「お堂に入らずに人々を救おう」との誓いを立て、お堂の外で『撫で仏』として信仰されています。患部を撫でると病気がよくなる、鼻を撫でると美人になる、手を撫でると器用になるなどの御利益があります。




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本堂

 現在の本堂は 間口14間、奥行12間、銅葺き屋根の木造、弘化2年(1845)の再建されました。
 本尊=徳川第五代綱吉公の帰依を受けた筑波山知足院の隆光大僧正が請来した地蔵菩薩で、特に延命の御利益があると伝えられています。
 額は仁王門と同じ源証大僧正の筆です。




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密厳宝塔

 ○「密厳」とは、「秘密荘厳」の略称で、真言密教で修養の要となる「三密」(「身密」=身体・行動、「口密」=言葉・発言、「意密」こころ・考え)を備えた究極の境地を指します。
 ○「宝塔」とは円筒形の塔身に宝形造(四角錐の形)の屋根を有する一重の塔を指します。真言密教では塔身が「大日如来」(宇宙を統べる密教での根本仏=太陽を象徴)と見なされています。また、「宝塔」には仏教における宝物が納められており、具体的には仏像や経典が安置されている場合が多い。
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旧 四国八十八カ所 霊場

 四国八十八カ所巡りの地蔵で、新設置場所に移さず残されたものがこの場所にまとめられています。
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 お寺にはミスマッチだったお供のジョージーナ




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力石

 持ち上げて、力試しをします。
 「力石」は人の集まりやすい寺社の境内などに置かれ、持ち上げられるかどうかの「力試し」に用いられました。江戸時代から明治時代にかけてこの「力試し」が盛んに行われていましたが、戦後その習俗は急速にすたれ、力石の多くは捨て置かれ、行方不明となったものが多くあります。住民が喪失を惜しんで、あらためて神社境内に奉納し、保存されている場合もあります。
 力石は表面がなめらかに磨かれた楕円形のものが多く、殆どが 60kg(米俵1俵の重さ)より重く作られています。持ち上げた人の名と日付が記念に刻まれることもありました。
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力石 その2

 過去に奉納されてきた「力石」が積み上げられています。




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横綱山に登る階段





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横綱山からの眺望

 本堂と寺務所、影向の松が見渡せます。


 どなたか存じ上げませんが、ボランティアガイドと思われる方が境内を丁寧に案内して、所々の由来の解説をしてくださいました。大変感謝しております。




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お気づきのこと等がございましたら
ご一報ください。→:こちら!
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ボランティアガイドさんと立派なパンフレットを参考にしました。


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今日もお出で頂きありがとうございました。
よろしかったら 次回もお付き合いください!


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