881 江戸東京博物館
東京都(Tokyo-To)
12/03/18 Sun. 


お気に召さないときは止めてください。

♪「教会にて」ブルグミュラー
ピアノ バージョンです♪

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 東京江戸博物館の『タワー展』に誘われ出かけてきました。
タワー展は特別展で、東京スカイツリー開業に向けての催しものだと思います。
 東京タワー、エッフェル塔の建設のいきさつや、建設途中経過などの紹介や、昔浅草に「富士山」という作り物の山があり、見物客でにぎわったことなどが展示されていました。
 いつもながら特別展は撮影禁止なので画像はありません。

 常設展の撮影可能なものだけですが、ご覧ください。
 入場するとすぐ、両国橋をイメージしたような橋を渡る仕組みになっています。この橋から下を見下ろすと、大阪万博、太陽の塔の顔の部分が展示されています。このような展示方法はここででないと出来ませんね。
 常設の博物館で大阪万博、太陽の塔の黄金の顔が新しくなり、古いものが取り外され、こちらに展示してありました。大きな顔が6Fの床に置いてあるのですが、吹き抜けの7階から眺める仕組みです。
 6Fに降りすぐ横に行きましたが、厚みが私の身長くらいで私の位置からはただ壁のように続く顔の円周のほかは何も見えませんでした。
 左の画像の右端・上下中央あたりに3人の人影、お判かりになるでしょうか?手前の黒い服を着た方は、思い切り両手を挙げて写真を撮られているようです。
 この写真は上の写真の橋のような場所から、見おろして撮っています。
太陽の塔 黄金の顔
1970年(昭和45)、大阪で開催された日本万国博覧会のテーマ館のシンボルとして太陽の塔が建造された。万博会場の中央を南北に貫くシンボルゾーンには地上30mの地点に幅108m、長さ292mの大屋根が取り付けられ、地下は「過去-根源の世界」、地上は「現在-調和の世界」、空中は「未来-進歩の世界」というテーマのもと、展示が企画された。これをプロデュースしたのが岡本太郎で、太陽の塔はその根源をなすものであった。太陽の塔は万博終了後もそのまま残されたが、1992年(平成4)に大改修が行われ、黄金の顔はステンレス板制のリニューアル版に取り換えられた。展示している顔は万博当時のオリジナル版。
住所:〒130-0015 東京都墨田区横網1丁目4番1号
TEL:03-3626-9974
開館時間: 9:30~17:30 土曜日は 9:30~19:30
入園料: 一般=600円 65歳以上300円  特別展は別途
   大学生=480円 高校生・(都外)中学生=300円
   都内在学、または在住の中学生・小学生・無就学児=無料
休館日:月曜(祝翌日)大相撲東京場所開催中は開館
   12月28日~1月1日








常設には何度か行っていますが、ジオラマの江戸の町が私にとっては
目新しい展示でした。

こちらは撮影OK。展示物によってはフラッシュもOKなものもあり、多少
収穫はありました。









寛永の町人地
日本橋を下った場所にあるのが江戸時代初期にあたる寛永年間(1624~1629年)の、日本橋付近の町の様子を1/30スケールで再現したジオラマです。


















和洋折衷住宅




和洋折衷住宅
Housing with Japanese nad Western style rooms
復元年代/昭和10年代  福本収子氏寄贈
 この建物は、大正初めに建て替えられ、その後、1,937年(昭和12)大熊喜英の設計によって改築された住宅(品川区東五反田)の一部を移築・復元したものである。
「食堂兼居間」は、大正から昭和初期に流行した山小屋風で、となりの和室との仕切りには、カーテンと襖(ふすま)をつかうことで違和感をなくしている。照明具や家具も部屋と調和するよう、大熊がデザインを担当した。











凌雲閣[十二階]

<十二階>の名で親しまれた凌雲閣(りょううんかく)は、英国人の技師ウィリアム=K=バルトンの設計によるもので、1890年(明治23)落成した。浅草のシンボルとして土産絵(みやげえ)にも登場し、関東大震災で倒壊するまで多くの人々でにぎわった。高さは220尺[約67メートル]といわれ、10階までは八角形の総煉瓦造り、その上は木造だった。中には世界各国の品物を売る店や休憩室があり、11・12階には眺望のため望遠鏡が備えられた。8階までは、日本で初のエレベーターが設置されたが、後に危険性が高いとして、運転が中止された。開業時の縦覧(じゅうらん)料は、大人8銭、軍人・子どもは半額であった。
復元にあたっては、当時の写真や錦絵をもとにした。
電気館
1903(明治36)年に日本初の映画封切館として誕生した建物です。この界隈は、活動写真小屋が多かったことで知られていますが、この電気館が先駆け的な存在となっています。







博物館内の売店


以下 過去に訪問したページです。
内容はダブらないよう掲載しました。
558 江戸東京博物館
617 ジオラマで訪ねるなつかしい町並みと鉄道
動画 なつかしい町並みと鉄道
(動画は↑ウインドウズ以外ご覧になれない場合あります)
619 大鉄道博覧会 江戸東京博物館


場外展示<博物館の上>:博物館を出て大江戸線の近くに設置されていました。
汐留遺跡にみる 江戸・東京




溶鉱炉
Excavated blast furmaces
溶鉱炉はレンガを積み上げ、燃焼部の周囲は耐火レンガで組んでいる。
燃焼部の下部は灰落とし部に繋がり、窓が付き、手前には灰を掻き出す一段低い作業場が設けられていた。5基並ぶ炉は、一番東側が増設されたもので、これらの炉の底部には燃料を載せるために鉄棒が渡されていた。
鋳物場と溶鉱炉
Excavated the foundry and the blast
日本で最初に作られた西洋式溶鉱炉の一部を切り取り、保存した。長方形のレンガ造り鋳物場の一画に、鋳物を製造する溶鉱炉が設置された。新橋駅構内には鉄道施設を維持・管理するための技術を、日本人に指導する外国人技師が居住していた。




溶鉱炉の中や、近くから出土した金属製品類
Metal relics excavated from the vicinity and inside of the blast furnaces
坩堝(ルツボ)は焼却部中に設置された形で発見された。溶鉱炉や鋳物場跡からは、鉄道に関する金属製品をつくる原材料の銅、鉄、インゴット、銅管などが出土している。








水道管
Water pipe from wooden pipe to iron pipe
-木樋から鉄管へ-
都市江戸には自然流水を利用した上水道が敷設され、汐留地域には多摩川上水が引き込まれていた。上水は地中に木製の水道管(木樋もくひ)をつなぎ、上水井戸から水を汲み上げて利用した。明治に入っても玉川上水は利用され続けたが、木樋は腐蝕しやすいため、ベルギー製鉄管が上水井戸に接続された。こうした上水は20世紀に入るまで、改良されつつ利用されていた。




木樋(もくひ)




仙台藩船着き場
(大名屋敷の船着場 仙台藩地区検出)
浅瀬を埋め立てて作られた藩邸は、石垣の堀に囲まれ、領国からの船が直接乗り入れられる船着き場も作られた。石垣を積み上げる技術は戦国時代末から発達し、江戸市中の堀割も、石垣で構成されていた。江戸時代前半には大規模だった船着場は、領国からの物資運搬船の需要が減少したためか、次第にその範囲を縮小し、幕末にはとても小規模になった。


この場外展示一画は、博物館に入館せずに誰でも見学できました。




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パネルを参考にしました。


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No.881 江戸東京博物館
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Photo21pieces/GreenSeason
◆太陽の塔の顔
◆タワー展
◆場外展示:汐留遺跡にみる江戸・東京
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