|
ついでに「お堂」と「堂宇」の違いを検索してみました。
どちらも同じ「堂の建物」を指しますが、「お堂」は丁寧に言った言葉で外部の人間が使い、お寺の関係者は自分自身に丁寧語は使わないため「堂宇」と言うらしいです。 |
OKWave より
|
|
|
|
梅の花が満開です
|
|
白梅
|
|
御祭神 市杵島姫命(いちきしまひめ)
厳島社[弁財天]
水・陸上交通、芸能、学問の守護神 |
|
|
鳥居をくぐり、橋を渡ると弁財天です。 |
|
厳島社
|
|
|
|
2011年3.11の爪痕でしょうか。
大きな石灯籠が御霊廟の片隅に寄せてありました。
|
|
天満大自在天神
平成の御廟で、道真公御神忌千百年にあたる、2002年に造営されました。 |
|
|
|
|
紅白の梅の花の間を通り、道路向こう側の本殿に移動します。 |
|
|
御神牛 天満宮と牛
御祭神(菅原道真公)の」お誕生日が丑年、丑日であったと伝わることから、天満宮では牛を眷属(けんぞく)[神に仕える動物]としました。
撫で牛とも言われ、撫でると御利益があるそうです。 |
|
拝殿
|
大生郷天満宮は、延長7年(929)右大臣菅原道真の第三子三郎景行(さぶろうかげゆき)の創建とされる。遺族の手による、また遺骨を祭祀していることから、数多い天神社の中でも日本三大天神の一つとされ、「学問の神様」として広く知られています。
延喜3年(903年)道真公が大宰府に没した後、影行は役人として常陸国に赴任。延長4年(926)現在の真壁町羽鳥に遺骨を祭祀したが、延長7年家臣数人と共にこの地に足をとどめ、飯沼畔の景勝地でもあった高台の現在地に道真を祀った。
その後、当地南方に天満宮の守護のため、「安楽寺」を建立し祈願時とした。東方1キロの「三郎天神社」は、後世三郎景行の供養のために建てられたものである。
本殿・拝殿等は大正4年(1576)の兵火のために焼失、その後、下妻城主多賀谷氏の援助により再興されたが、大正8年(1919)再度の火災により社殿は焼失し、往時の姿を偲ぶことはできないが、数多くの文化財が保存されている。 |
常総市観光協会・常総市教育委員会 パネルより
|
梅の木を傷めないように吊り下げられた
おみくじ
|
神社の場合、本殿というのか拝殿というのか迷って検索したところ
わかりやすい説明がありました。
神社には、「本殿」、「拝殿」があります。
拝殿は、賽銭箱が置いてあり、人々が礼拝している建物。お祓いや祈祷などを受ける場所でもあります。
本殿は、拝殿の奥にあり、御神体を収めています。
本殿は神がいる神聖な場所で、人が入ることを前提としていないために拝殿より建物が小さい。
本殿は拝殿の奥にあること、小さいことから、一般の人は拝殿を中心的建物と考えがちです。
神社の中でも、本殿がない神社、拝殿が二つある神社、拝殿がない神社もあるようです。 |
-文化遺産探索コミュニティ 宝の地図- 参考
|
|
公式サイトが見つからないので建物の配置などがわかりませんが
こちらは お賽銭箱は見えませんが、大きな建物です。
社務所でしょうか。入り口前の紅白の梅が見頃でした。
|
|
厄除、方除、合格、進学等祈願の絵馬
|
|
階段を下りて、見上げて撮り、
そこで出会った方に「大生郷」の読み方を聞き
もう一度境内へ
|
|
大生郷天満宮の照葉樹林
境内の北側から西側の斜面にはスダジイやアラカシ・ヤブツバキ・モチノキなどの冬も艶々とした葉をつけた木々が茂っています。このような樹木を照葉樹(しょうようじゅ)といい、関東地方より南西部の海岸や平野・低山体の自然林を作っています。さらにその分布は中国南部からヒマラヤ山地の中腹にまで至って、その地域にはクズ・サトイモ・餅・納豆・茶・稲・焼畑など共通の文化があるといわれています。
茨城はアジアの照葉樹林体のほぼ北限にあたり、この樹林は当市で最もよく残された照葉樹林で、林床にはサネカヅラ・マンリョウや常緑のシダ類が生育して古代の植生を偲ばせています。 -茨城県緑地環境保全地域- |
|
|
|
|
「刀研石」と呼び、この碑で刀を研げば
心願が成就すると伝わるという
現在2面とも、長年の風雪により摩滅し読むことはできませんが
明治44年の解読で126美字を刻写した。と書いてあります。
|
|
手水舎
|