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所在地=茨城県つくば市研究学園1丁目1番地1 供用時間=9:00~16:30 休所日=月曜日、祝日の翌日、年末年始ほか 案内所TEL=029-867-5841 料金:無料 |
◆TXつくば駅から⇒つくバス小田シャトルで約45分⇒『大池・平沢官衙入り口』下車⇒徒歩5分 ◆JR土浦駅から⇒筑波・下妻方面バスで約30分⇒『大池公園前』下車⇒徒歩5分 ■ 常磐自動車道「土浦I.C」⇒国道125号線で北は約20分 |
遺跡の遺構の配置は一見不規則に見えますが、建物の方位を見ると「L」字型や「コ」の字型のような平面配置で、数等単位で群を形成することが分かります。 ここでは、群内の建物は同時期に建てられたと位置づけ、出土物の年代観を組み合わせて、5期に区分しました。 なお、郡衙正倉院としての最盛期はⅡ・Ⅲ期と考えられます。 Ⅰ期 8世紀初頭以前:遺跡東南部に柵列 Ⅱ期 8世紀前半中心:遺跡東南部と西部に中規模総柱建物 Ⅲ期 8世紀後半中心:遺跡中央部に大規模総柱建設 Ⅳ期 9,10世紀 :空閑地に小・中規模総柱建設 Ⅴ期 11世紀以降 . :遺跡中心部に大規模側柱建物 |
今から千年以上前の奈良・平安時代の常陸国筑波郡の役所跡です。昭和50年(1975)の調査で、重要な遺跡であることが判明し、昭和55年(1980)に国の史跡に指定されました。平成5・6年度(1993・4)には復元整備事業を計画し、本格的な発掘調査を行いました。 調査では、一般の遺跡では見られない大型の高床式倉庫と考えられる建物が数多く並び、それらを大きな溝が囲むという遺跡の全容が確認されました。これらの倉庫跡はそのころの税である稲や麻布などを納めた、郡役所の正倉跡と考えられます。出土物はわずかで、土器類・瓦・硯の破片・焼米などがあります。 つくば市では、この貴重な文化財を後世に伝え、活用するため、平成9年度(1997)から6年をかけて往時の姿を復元しました。 |
古代の文献により、校木を井桁状に組み上げる校倉は、郡衙正倉では中規模以下の倉に多いことが判明している。また、校倉は柱がないため軒先が下がりやすい。ここでは外周柱穴列を屋根支柱と推定して、校倉で復元した。屋根は校倉建物に多い寄棟としてある。復元に際しては、奈良県の東大寺や唐招提寺に現存する奈良時代の校倉を参考にした。 |
断面が三角形上の校木(あぜき)を、頂部の尖った方を外側に、底辺の平らな面を内側にして積み上げ壁としています。ギザギザの外側に対し内面は板のように平らで、柱はありません。 桁方向の校木壁の上には大梁をわたし、大梁から繋梁(つなぎばり)を2本ずつかけ、屋根を支える小屋部土台を作りますが、天井で小屋部は見えません。 |
古代の文献により、郡衙において中心的で巨大な正倉は法倉と呼ばれ、土壁構造が多かったと推定されることから、土倉で復元した。現存する古代の土壁の倉として奈良県の法隆寺綱封蔵を参考にしたが、遺跡東南隅のⅡ期52・53号が双倉になる可能性があるため、同蔵と同じ双倉構造とした。屋根はこの遺跡の瓦出土量が少なく、瓦葺建物は考えにくいので、茅葺にした。 |
発掘調査で発見される掘立柱建物は、1柱穴1柱が普通だが、3号建物では側柱穴に2本の柱痕跡が見つかった。これは、1本は床上まで伸びて桁・梁を支える通し柱、もう1本は床を支える添束と考えられるため、柱の間に板壁を落とし込む板倉で復元した。屋根は軒の出が短い切妻とした。古代の文献では、郡衙正倉はこの板倉が最も多い。 |
通し柱の間に板を落として壁とし、柱頂部は最初に梁を張り、次に桁をわたす折置(おりおき)式という組み方で固めて小屋部の土台としています。 この建物では、塞板(せきいた)の状態を示すため出入口を2カ所復元し、それぞれに塞(せき)≪収納した籾が崩れても扉が開閉できるようにする小部屋≫を設けました。ただし、この建物に2カ所の扉と塞があったということではありません。 |
地方のしくみ
古代常陸国の郡と筑波郡の郷 (10世紀前半)
当時の主な税 物納と労働に分かれ、調・庸・雑徭が中心。性別、年齢、 居住地などにより、負担に差がありました。
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