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所在地=〒294-0316 千葉県館山市洲崎1344 電話=0470-29-0713 御朱印受付時間=9:00~17:00 駐車場:あり(無料) |
JR内房線『館山』駅から . 洲崎まわり「白浜行」JRバス 『洲崎神社前』下車徒歩5分 --------- 車=富津館山道路・富浦ICから約25分 |
『延喜式』に「后神天比理乃咩命神社 元名洲神」とある神社で、祭神は天太玉命の后神天比理乃咩命(きさきがみ あめのひりのめのみこと)。現在の本殿(市指定)は、延宝年間(1673~1680)の改築と推定される。 本殿の構造は三間社流れ造り。石橋山合戦に敗れて安房へ逃れた源頼朝が戦勝祈願したり、太田道灌が洲崎神社の祭神を江戸城近くに勧請して神田明神とするなど、広い信仰がある。 神社裏の御手洗山の林は、神社鎮座以来氏子の信仰が厚く、斧を入れたことのない自然林(県指定)で、スダジイ・タブノキ・ヤブニッケイなどの常緑樹が多く茂っている。このほか、洲崎大明神縁起(市指定)や神体髪(市指定)などが伝えられている。 |
大同2年(807年)の『古語拾遺』によると、神武天皇元年に神武天皇の命を受けた天富命が肥沃な土地を求めて阿波国へ上陸し、そこを開拓しまた。その後、さらに肥沃な土地を求めて阿波忌部氏の一部を率い房総半島に上陸したとされています。 宝暦3年(1753年)に成立した洲崎神社の社伝『洲崎大明神由緒旧記』によれば、神武天皇の治世、天富命が祖母神の天比理乃咩命が持っていた鏡を神体として、美多良洲山(御手洗山)に祀ったのが洲崎神社の始まりであるといわれています。 また、『安房忌部家系之図』や『斎部宿禰本系帳』には、天富命15代目の子孫である佐賀斯の第2子・色弗が初めて祖神天太玉命の后神を祀ったとの記述があります。 『安房忌部家系之図』や『斎部宿禰本系帳』では色弗の兄の第4子・加奈万呂が安房神社第22代祠官として勝義と改名し、勝浦崎(洲崎)に仮宮を作って天比理刀咩命を祀ったとしています。このことから、色弗が初めて祀った斎場は大和国で、加奈万呂が勝浦崎(洲崎)に仮宮を作った養老4年(720年)7月が洲崎神社の創祀とする説もあります。 洲崎神社社伝によれば、養老元年(717年)大地変のため境内の鐘ヶ池が埋まり、地底の鐘を守っていた大蛇が災いしたので役小角が7日7夜の祈祷を行い、明神のご神託により大蛇を退治して災厄を除いたのだといわれています。また、役小角が海上安全のため浜鳥居前の海岸と横須賀の安房口神社に御神石を1つずつ置いたなど、洲崎神社には修験道の開祖である役小角にまつわる伝承が多くあります。これより、洲崎神社が古くから神仏習合思想や修験道の影響を強く受けていたことを物語っているとされています。 |
洲崎神社は、東京湾の出入口を見下ろす場所であることから、古来、漁師にとっての漁業神、船乗りにとっての航海神でした。 御祭神は天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)といい、安房開拓神話に出てくる忌部(いんべ)一族の祖神天太玉命(あめのふとだまのみこと)の后神(きさきがみ)です。 標高110mの御手洗山中腹に鎮座し、太平洋を一望できるほか、浜鳥居(一の鳥居)から富士山を眺めることもできます。 |
野島埼灯台は、慶応2年(1866)江戸幕府とアメリカ等4ヶ国との間で結ばれた江戸条約に於いて建設することが定められ、明治2年(1869)12月18日竣工し初点灯されました。 日本の洋式灯台としては、観音埼灯台に次いで2番目のものです。当時建設された灯台はフランス人技師ヴェルニーの設計によるレンガ造りでしたが、大正12年(1923)9月の関東大震災により倒壊し、大正14年(1925)8月15日に改築されたのが現在の灯台です。 |
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位置 | 北緯 34度54分06秒 / 東経139度53分18秒 |
光り方 | 単閃白光 毎15秒に1閃光 |
光の強さ | 73.0万」カンデラ |
光の届く距離 | 17.0海里(約31km) |
高さ | 地上から灯台頂部 約29m 水面から灯火 約38m |
管理事務所 | 千葉海上保安部 電話043-241-1983 |
所在地=〒295-0102 千葉県南房総市白浜町白浜 630 営業時間=10/1~4/30=9:00~16:00 / 5/1~9/30=9:00~16:30 入場料= 大人 中学生以上=300 休館日=荒天時 駐車場:あり(無料) |
JR内房線『館山』駅からJRバス洲崎方面行き『洲崎神社前』下車徒歩5分 車=富津館山道路・富浦ICから約25分 |
所在地=〒295-0103 千葉県南房総市白浜町滝口 時間=9:00~17:00 トイレ=あり 駐車場:あり(無料) |
この橋は、白浜町滝口地先、長尾川に架かる石積み工法様式3重橋で「めがね橋」と呼ばれている。 明治21年(1888)に竣工したというこの橋は当時399円40銭、村民の寄付によると長尾村誌に記録されている。 「架橋以前は、此地点を徒歩せるなりき」との記されているので以前は、長尾川に橋はなく川の中を歩いて渡っていたと思われる。 老朽と戦時中戦車が通行したため損傷が甚だしかったが、昭和52年の補修、平成5年度文化財保存整備補修工事が行われ復元された。 |
長尾川めがね橋ウォーキングプラザの駐車場に車を止めたまま、道路を渡り銀鱗橋周辺散策しました。 |
若い海女像 ************************* お気づきのこと等がございましたら ご一報ください。→:こちら! ************************* |
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