n030 鳥越神社、榊神社、柳橋

東京都(Tokyo-To)
13/06/02 Sun.


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♪「さとうきび」S.Joplin
ピアノ バージョンです♪
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鳥越神社





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No.n030 鳥越神社、榊神社、柳橋
No.n030 Torikoe shrine, Sakaki shrine, Yanagi bridge

Tokyo-To /Beautiful Japan
Photo:23pieces/GreenSeason
♪=シュガーケイン
◆日本武尊(やまとたけるのみこと)
◆天神第六代坐榊皇大御神(あまつかみむつのみよにあたりたまうさかきのすめおおみかみ)
◆面足樽(おもだるのみこと)
◆惶根樽(かしこねのみこと)
◇神社
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所在地:東京都台東区鳥越2-4-1

最寄駅:都営地下鉄「蔵前駅」徒歩5分
JR「浅草橋駅」西口下車 徒歩8分

御祭神:日本武尊(やまとたけるのみこと)

合祀:
天児屋根命-仁明天皇の御代に武蔵国司となった藤原氏が、祖神を合祀した。
東照宮公-徳川家康を祀っていた松平神社が、関東大震災で焼失したために合祀された。







手水舎


鳥越神社
  鳥越と言う名は平安時代後期頃まで、白鳥村と呼ばれていました。御社は、小高く見晴らしの良い、白鳥山の山頂(現在地)に、白鳥明神として奉祀されました。これが白雉2年(651年)5月のことで、景行天皇(人皇12代)の皇子、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐のときに、此の里へ暫く滞在した時、人々は、御威徳を慕い尊び、此の里の福徳円満・恒久平和を念願し、祀ったのがはじまりです。
   鳥越神社となったのは、社伝によると、永承年間(1046〜1053年)の事で、奥州安部氏の反乱が当時の朝廷を震撼させました。そこで、当時武名の高い源 頼義・義家親子にさっそく鎮定するようにとの勅命がくだりました。
源親子は大川(旧宮戸川・隅田川)の河口を越えることに大変苦しみました。その時、一羽の白鳥が親子の目の前で川の浅瀬に下り立ち、そこならば、対岸に渡れる事を悟しました。そのおかげで、軍勢を無事対岸に渡すことに成功しました。八幡太郎義家公はこれ、白鳥明神の御加護であるにちがいないと、山頂の本社に参拝し、鳥越大明神の御社号を奉ったということであり、以後、鳥越神社と称されるようになりました。 




お札授与所











拝殿







拝殿







志志岐(ししき)神社<境内末社>
御祭神:豊玉姫命(とよたまひめのみこと)
御由緒:本社対馬國下懸郡久田村にあり、
安産を守る神として崇められる。







絵馬



福寿神社<境内末社>
御祭神:
倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
  お稲荷さんといわれ、福徳開運十種の徳
大黒天神
恵比寿神
  七福神の二神で福徳開運、延寿、医療、智恵、善心
菅原道真公
  文章博士、学問の神






第六天神の「総本宮」 榊神社




第六天榊神社
御祭神:天神第六代坐榊皇大御神
(あまつかみむつのみよにあたりたまうさかきのすめおおみかみ)
面足樽(おもだるのみこと)
惶根樽(かしこねのみこと)

御神徳:健康長寿 諸業繁栄
御鎮座:景行天皇御宇40年
      日本武尊 御創祀る
御祭礼:6月第1土・日曜日

というわけで偶然御祭礼の日に訪ねました。







社務所


所在地:〒111-0051 台東区蔵前1-4-3

TEL:03-3851-1514  FAX:03-3862-7716

最寄駅:JR 『浅草橋駅』 徒歩5分
地下鉄浅草線『蔵前駅』 徒歩3分







拝殿

御由緒
 景行天皇の御宇40年(110)日本武尊が、勅令により東国の鎮定に下向の折この地に国土創成の祖神である皇祖二柱の神を鎮祭し、自らを捧持した白銅の宝鏡を納め国歌鎮護の神宮とした。古来より「第六天神宮」と称され公武衆庶の崇敬を受けてきた。明治6年 榊神社と改称した。







神楽殿





繁昌稲荷神社

鳥居の右にあったパネルには

浅草文庫跡碑
 浅草文庫は、明治7年(1874)7月に創設された官立の図書館である。翌8年に開館し、公私の閲覧に供した。当時の和・漢・洋の蔵書数は11万余冊とも13万余冊ともいわれている。現在、その蔵書は国立公文書館内閣文庫や国立国会図書館、東京国立博物館などに所蔵され、太政大臣三条実美(さんじょうさねとみ)の筆蹟と伝える「浅草文庫」の朱印が押されている。
 明治14年5月に閉鎖。跡地は翌15年に設立の東京職工学校(旧東京高等工業学校、現東京工業大学)の敷地の一部となった。関東大震災後の大正13年、当時の東京高等工業学校は目黒区大岡山に移転。
 昭和3年に現在地に移ってきた榊神社のあたりは、かつて、浅草文庫が位置していた所である。高さ4mの碑は、この文教の旧地を記念して、昭和15年11月建立された。
平成13年3月        台東区教育委員会
と、書かれ、後ろに大きな石碑が建っていました。




お神輿




事比羅神社と豊受神社






柳橋付近




所在地:中央区東日本橋2丁目、台東区柳橋1丁目

最寄駅:都営地下鉄 浅草線 「浅草橋駅」




船宿








一方通行出口標識の左、緑の欄干が、柳橋の一部です。







神田川
船宿と屋形船




橋梁の諸元
◆形式:タイド・アーチ橋◆橋長:37.9m
◆有効幅員:11.0m(車道6.0m 歩道2.5m×2)
◆建設年次:昭和4年12月(復興局施行)
柳 橋
 柳橋の下を流れる神田川は、三鷹市井の頭池を水源とし、都心部を流れて隅田川へ注ぐ全長約25kmの都市河川です。
 この位置に初めて橋が架かったのは、元禄11年(1698)のことで、
「川口出口之橋」あるいは近くに幕府の矢の倉があったことから「矢の倉橋」と呼ばれていました。
『柳橋』の由来については、
(1)矢の倉橋が矢之城(やのき)橋になり、さらに柳橋となる。
(2)柳原堤の末にあったことに由来する。
(3)橋のたもとに柳の樹があったことに由来する。
このように諸説ありますが、真説は不明です。
 明治維新後、柳橋は新橋と共に花街として東京を代表するような場所になり、新橋は各藩から出て政府の役人になった人々、柳橋は江戸以来の商人や昔の旗本といった人々が集まるところであったようです。
 区では平成3年度に優美な形をしたこの橋を後世に伝えるため、傷んだ親柱を復元し、欄干は花街にちなんで『かんざし』を飾り、ほどには御影石を貼って再生しました。また夕暮れより照明の演出をして、神田川河口に架かる『柳橋』の存在感をもたせました。







 柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一
橋梁です。その起源は江戸時代の中頃で、当時は下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡船で往き来していましたが、不便なので元禄10年(1697)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌11年に完成しました。
 その頃の柳橋辺りは隅田川の舟遊び客の船宿が多く、“柳橋川へ布団をほうり込み”と川柳に見られるような賑わいぶりでした。
 明治20年(1887)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正12年(1923)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。柳橋はドイツ・ライン川の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和4年(1929)に完成しました。
 完成から70余年、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として平成3年に整備し、同11年に区民有形文化財に登録されています。
平成14年3月       中央区教育委員会




欄干の『かんざし』飾り
(2006年7月29日撮影)レポートはこちら
神田川




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お気づきのこと等がございましたら
ご一報ください。
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立札.HP などを参考にしました。


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今日もお出で頂きありがとうございました。
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