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所在地:中央区東日本橋2丁目、台東区柳橋1丁目
最寄駅:都営地下鉄 浅草線 「浅草橋駅」
船宿
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一方通行出口標識の左、緑の欄干が、柳橋の一部です。
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神田川
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橋梁の諸元
◆形式:タイド・アーチ橋◆橋長:37.9m
◆有効幅員:11.0m(車道6.0m 歩道2.5m×2)
◆建設年次:昭和4年12月(復興局施行)
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柳 橋
柳橋の下を流れる神田川は、三鷹市井の頭池を水源とし、都心部を流れて隅田川へ注ぐ全長約25kmの都市河川です。
この位置に初めて橋が架かったのは、元禄11年(1698)のことで、
「川口出口之橋」あるいは近くに幕府の矢の倉があったことから「矢の倉橋」と呼ばれていました。
『柳橋』の由来については、
(1)矢の倉橋が矢之城(やのき)橋になり、さらに柳橋となる。
(2)柳原堤の末にあったことに由来する。
(3)橋のたもとに柳の樹があったことに由来する。
このように諸説ありますが、真説は不明です。
明治維新後、柳橋は新橋と共に花街として東京を代表するような場所になり、新橋は各藩から出て政府の役人になった人々、柳橋は江戸以来の商人や昔の旗本といった人々が集まるところであったようです。
区では平成3年度に優美な形をしたこの橋を後世に伝えるため、傷んだ親柱を復元し、欄干は花街にちなんで『かんざし』を飾り、ほどには御影石を貼って再生しました。また夕暮れより照明の演出をして、神田川河口に架かる『柳橋』の存在感をもたせました。
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柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一
橋梁です。その起源は江戸時代の中頃で、当時は下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡船で往き来していましたが、不便なので元禄10年(1697)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌11年に完成しました。
その頃の柳橋辺りは隅田川の舟遊び客の船宿が多く、“柳橋川へ布団をほうり込み”と川柳に見られるような賑わいぶりでした。
明治20年(1887)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正12年(1923)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。柳橋はドイツ・ライン川の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和4年(1929)に完成しました。
完成から70余年、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として平成3年に整備し、同11年に区民有形文化財に登録されています。
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平成14年3月 中央区教育委員会
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欄干の『かんざし』飾り
(2006年7月29日撮影)レポートはこちら |