n036_2 白鬚神社

東京都(Tokyo-To)
13/06/16 Sun.


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♪「Solace-1」S.Joplin
オルゴール バージョンです♪
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白鬚神社






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No.n036_2-白鬚神社
No.n036_2- Shirahige Jinja shrine

Tokyo-To /Beautiful Japan
Photo22 pieces/GreenSeason
♪=Solace-1
◆文化3年銘狛犬
◆隅田三絶、隅田七福神、寿老神
◆寺島茄子、山玉向島講社
◆猿田彦大御神(さるたひこおおみかみ)
◆天照大御神(あまてらすおおみかみ)
◇神社、パワースポット
出かけませんか?CandyBox
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所在地:〒131-0032 
東京都墨田区東向島3丁目5番2号
電話:03-3611-2750
御祭神:猿田彦大御神(さるたひこおおみかみ)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
高皇産霊神・神皇産霊神・大宮能売神
豊由気大神・健御名方神
例祭日:6月7日
最寄駅:




中央の木と左の角柱の間の石碑が墨田区登録文化財の
「墨多三絶(すみださんぜつ)」の碑のようです。

 墨田川の風物を詠じた佐羽淡斎(さばたんさい)の詩碑で、大窪詩仏(おおくぼしぶつ)が筆をとったものです。「墨多三絶」の篆額は巻菱湖(まきりょうこ)の筆になります。建立年に当たる壬午は、文政5年(1822)のことです。
 なお、絶とは五字または七字の四句で一体をなす漢詩のことで、三詩からなるので三絶と呼びます。
 この碑(草書)は三囲神社の「本松斎一得翁之碑」(隷書)、隅田川神社の「無琴道人墓銘」(楷書)の両碑を加えて、大窪詩仏の三書体、すなわち『詩仏三碑』として世に知られています。
 維舟渡口歩汀沙来飲祠前売酒家一
 道玻璃烟淡抹夕陽猶在半堤花
 不借朝南暮北風遊船如織日忽々沙鴎
 欲管繁華事閑睡落花流水中
 断磬聲中結夕陰堤彎岸繚寺門深
 鴎邊柳処元陳迹付与詩人吟至今
 上毛淡齋佐羽芳詩壬午冬日書詩佛老人大窪行
  平成18年12月   墨田区





・・・参道・・・


由緒
 天歴5年(951)に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神の御分霊を戸々に祀ったと、社伝の記録は伝えている。天正19年(1592)には、時の将軍家より神領二石を寄進された。
 当社の御祭神猿田彦大神が、天孫降臨の際に道案内にたたれたという神話より、後世お客をわが店に案内して下さる神としての信仰が生まれた。社前の狛犬は、山谷の料亭八百善として有名な八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が文化12年に奉納したもので、その信仰のほどがしのばれる。明治40年には氏子内の諏訪神社を合祀した。







・・・拝殿と鳥居・・・


隅田川七福神
 当社に寿老人を配し奉るのは、文化の頃この向島に七福神をそろえたいと考えた時にどうしても寿老人だけが見当たらなかった。ふと白鬚大明神はその御名から、白い鬚の老人の神様だろうから、寿老人にはうってつけと、江戸人らしい機智を働かせて、この髪を寿老人と考え、めでたく七福神がそろったといわれる。隅田川七福神に限り寿老神と神の字を用いる所以である。






・・・拝殿と鳥居・・・







・・・拝殿・・・







・・・神楽殿・・・







神楽殿の軒下







・・・神楽殿・・・




隅田川七福神の内の白鬚大神の碑










墨田区登録文化財
山玉向島講社の碑
 山玉向島講社(やまたまむこうじまこうしゃ)は、かつて向島地域にあった富士講の一つで、山玉深川元講の枝講だったと考えられています。
明治8年(1875)7月ごろには既に存在し、構成員は主に寺島・中之郷・須崎の三地区に居住していました。専用の祭祀具をあつらえて月拝みを行い、夏季には20名前後の人数で富士山を登拝していたようです、井戸の後ろに立つ石碑二基は、その山玉向島講社が対象11年(1922)3月に建立しました。
 向かって左側に立つ石碑には「奉納基本金 大正11年3月」とみえ、4代目先達玉山丈行(ぎょくざんじょうぎょう)講元松本萬次郎、そして当時の世話人22名の名前が刻まれています。また、右側に立つ石碑には総勢82名の名前と5軒の屋号が確認できます。ここに立つ石碑二基は、このように百名を超える人々が基本金の奉納を記念して建立したものです。基本金の意味するところは不明ですが、奉納者は屋号記名した五軒を除きすべて男性です。これらの人々は各家の戸主であった可能性が高いことから、基本金の奉納は地域をあげて協賛すべき性格の事業だったとも考えられます。
 なお、四代目先達玉山丈行は本名を重城丈吉といい、白鬚神社の氏子総代の一人でした。遅くとも大正7年8月までには大先達に昇格し、同9年8月3日には富士登山33度大願成就を果たして富士吉田の御師「大番城(大番城)の屋敷に記念碑を建立していました。左の石碑は玉山丈行が講社創設以来4人目の先たつに当ることを示しており、講社の沿革を知る上でも貴重な情報を提供しています。
平成24年1月    墨田区教育委員会




・・・手水舎・・・







山谷の料亭八百善として有名な八百屋善四郎、
吉原の松葉屋半左衛門が文化12年に奉納した狛犬
確かにその彫り込みを確認しました。^^*






江戸・東京の農業  
 かつて、白鬚神社の周辺は寺島村といいました。
元禄郷長(1688〜1704)によれば、この地一帯は水田を主とする近郊農村でしたが、隅田川上流から運ばれてきた肥沃な土はナス作りにも適し、ナスの産地として、その名も『寺島ナス』と呼ばれていました。
 享保20年(1735)の「続江戸砂子温故名跡志」には、「寺島茄子 西葛西の内也。中之郷の先、江戸より一里余」とあり、「夏秋の中の嘉蔬(かそ)とす」また、文政11年(1828)の「新編武蔵風土記稿」には、茄子として、「東西葛西領中にて作るもの」として「形は小なれどもわせなすと呼び賞美す」と江戸近郊の名産であることが記されています。
 農家は収穫したナスを船を使って、千住や、本所四ツ目、神田の土物店(つちものだな)<青物市場>等に出荷していました。
江戸時代、悠々と流れる隅田川の東岸。田園地帯であった寺島に、後世に伝えるに値するナスの銘品があったのです。
平成9年度   -JA東京グループ-
・・・こんなパネルも立っていました。




明治40年に合祀された諏訪神社。







境内社
三峯社・水神社







絵馬







こちらの内容『由緒』と『隅田七福神』は
上方の4枚目、.5枚目の写真の横です。














スカイツリー経由で帰ります。




すさのお神社、石浜神社、白鬚神社の三神社訪問で
「撮れ高OK」が出ました。(笑)
お腹がすき、うな丼を戴いて帰りました。





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ご一報ください。
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立札を参考にしました。


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